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新の有効期限

 一昨日、バインファンでもありCOMPUTERKIDSというバンドのボーカルをしているケンヤさんが、インスタ配信をやってる時に、「新しい」について話していたこともあって、自分の中での「新しい」について書いてみようと思った。
 「新しい」というのは、普通の意味で考えると、買ってきたばかりのものだったり、とれたての野菜だったり魚だったりの鮮度とか、季節が変わる時に売り場の商品が変わって今までにないものが置いてあることだったりする。だけど、そういう「新しい」ではなくって、作品とかに言われる「新しい」っていうのは、使うのやけど簡単ではないし、何をもって「新しい」と言うのか、というのがとても難しい。

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 この「新しい」ということについて、最初に考えたのは、高校の頃だろうか。自分が芸大受験をするにあたって、デッサンをするのとは別に、モンドリアンのようなコンポジションを描くとなった時、どういったものが斬新なのかということを考え始めて、「新しい」と言われるのはどういったところなのだろうかということが頭の中で駆け巡った。絵を描くといつもそれに直面し、案を脳裏に浮かべて描いてはみるものの、元々画力もない上に、上手くはいかないし、どうにも模倣でしかなく、くだらないと思えて破り捨てたくなった。
 ある意味、絵はその描く道具は変化していってはいるけれど、そのままの道具で「新しい」ものを生み出すとなると、今までにないものっていうのが思い浮かびはするものの、そう思った瞬間に“もうこの世界に今までにないもの”なんてあるのだろうかと自問して、そんなものはないのかもしれないし、出尽くしてしまっているんじゃないかという答えに行き着いてしまう。そうなると、一体「新しい」としてその作品を語る時に、どう「新しい」のか説明できるのかと言えば、それはただそれまでに出ている同じような作品を知らないだけで、知らないからこそ「新しい」と言えるのか、それとも知り尽くした上で、それでも「新しい」と思うのならば、それは何であるのかという部分を見極めなければならないんじゃないかとか、ごちゃごちゃと自分の脳内で会議が始まるのである。
 これは、絵に限ったことではなく、音楽でも写真でもデザインでもファッションでも、何にでも言えることで、「新しい」と言う場合にどう「新しい」のかが、説明できることは重要なのだ。例えば、それは今までにないものの融合であったり組み合わせ、素材や質感、感触、新たに生み出された技術でしかできない技法や出力、そういうものなのかもしれない。新たな視点を持つ、ということでもあるし、新たな視点を与えるということでもある。それが、容易にできないからこそ「新しい」のであって、感覚的に「新しい」をできるのが天才であるのかもしれない。

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 じゃぁ、天才でもない自分が、「新しい」を生み出せるとしたら、どうしたらいいのだろうかって思う訳で、そのヒントが、ある種どういった研究をしたいかというものを考える視点に似ているんじゃないか、と思う。研究っていうのは、もう前にされている先行研究を紐解いて、その中から自分がフォーカスしたい、深く掘り下げたい部分を見つけることでもある。また、自分がやりたいと思うものが、もう先行研究で答えが出ているものなのかを知ること必要になる。その過程を経て、研究内容が全く同じであったとしても仮説を変えて結論を覆すこともあるだろうし、そこから得られた全く別の仮説から新たな結果が生まれることもあるのだろう。
 そう考えると、「新しさ」を得ることは、自分がやってみたいことが、他の誰かにもう行われていることなのかを知ることでもあり、それを上書きすることでもあり、行われているものに何かを足すことでもある。
 「新しい」を与える為には、探求が要であることは確かなんだろうと思うけれど、どの要素を抽出して書き出していくのかも大切なんだろう。明らかに「新しい」と思えるものに触れる時、私はいつも『これをどうすれば表現できるのか』と『こんなものがどうして浮かぶのだろう』という2つが浮かぶ。そういうものを与えれるものは、「新しい」を持っていようが、持ってなかろうが、いつも新鮮であることは確かだ。

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