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それって、使う必要ある?

 ちょっと、なんとか女子ってやつの話をここ何日か目にして色々思う訳だ。たまたまpenのジェンダー特集を買っていて、まだ全部読めてはいないのだけど、penを読んだら、ジェンダーについての考察をしようかなと思っていたので、その前の段階として、自分のことなんかを交えて書いてみようかと思った。たまたまpenのジェンダー特集を買っていて、まだ全部読めてはいないのだけど、penを読んだら、ジェンダーについての考察をしようかなと思っていたので、その前の段階として、自分のことなんかを交えて書いてみようかと思った。

 元々、10代の頃から、自分はなんというか「普通」でいるつもりだけれど、「普通」ではないのかもしれないなと、どこかで思いつつも、「普通」でないと自分から言うのもなんだか自意識過剰な気もするし、そんなの気にせずにいればいいや、とは思うけれども、周囲からとやかく言われると、それではいかんのかなと考えざるを得なくなったりした。
 「普通」ではないこともないのだけれど、自分の興味のあること、好きなものを、そう周囲に共感してもらえないというのは、当たり前のことだったし半分諦めてもいた。だから、大人になるにつれて、自分の好きなものを共感してもらえることの喜びはひとしおだった。それは、自分の興味のあることが、一般的なものではないというか、言ってしまえば流行りのものではなかったこともあるが、それだけでなく、好きなもの自体が、その性別で判断したくないものの、どこかカテゴライズされたものの枠組みで言えば、男性が好きなものだったりしたこともあるのかもしれないと思うこともあった。
 そんな中で、“~女子”というので、救われた部分があったことは確かではある。それが鉄道だった。私は電車の車輛がすごく好きだ。車も好きなので、高速で車の車種を見て楽しむのが、子供の頃からの楽しみでもあった。なので、子ができて、車の図鑑を見るのが苦痛だと思ったこともないし、知識が増えて嬉しいとさえ思ったし、なんなら率先してドクターイエローを見に行くくらいだ。だけど、世間では、そんなものが好きなのは“男子”でないといけなくはないが、そうと決まっている感じがどうしてもある。

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 例えば色でそれは顕著で、私はたまたま赤が好きだからよかったけれど、ピンクが昔からそんなに好きではない。まぁピンクの色にもよるのだけれど、好きな色を聞かれても、上位には上がらない。
 たまたま以前していた仕事が子供と接するものだったので、色について私が低学年相手に譲らなかったことがあった。それは、Aくんがピンクを好きと答えたことを、Bくんが「先生、こいつピンク好きなんやって。」と言ったことだった。私にしてみれば、「そうなん。」で終わりの話であるし、実際そう答えた。すると、Bくんが「え、でもピンクやで?」と言うので、「だから?」とBくんに言うと、返事に困ってしまった。Bくんにとっては、「こいつ男やのに、ピンク好きなんやって。」と、私に主張したかったことがわかった。だから、その後、どうしてAくんがピンクが好きではいけないのか、ということについて、Bくんは私に詰め寄られる羽目になるのだが。
 それはさておき、“~女子”と頻繁に言われ出してから、15年くらいは経っているのではないかと思う。何にでも、“女子”と付けることへの違和感は、ずっとあるし、もっと言えば、“~女子”と言われ出す前から、写真は撮っていたのだし、今更それを括られるというのは、なんだか違うような気がしてならないというか。これもよく出る話ではあるが、“女子”という言葉をどれくらいの年齢にまで適応させるべきなのか、という疑問もある。“女史”ならいいのではないけれど、そこに性別を入れる必要性があるのか、ということだ。飲みに行くのも、飲み会で言い訳で、あえて女だけなら女子会と言う必要性が、わからない。男だけで飲みに行くから男子会とは言わないのであって、そこに話題性を持たせたい気持ちはわからなくもないが、女だけで飲みに行くことは、別にずっと前からあることだし、それに別の名前を付けることが必要なのだろうかと思う。
 “女子”だけでなく“男子”でもそれはある。化粧品が好きだったり、スイーツが好きだったり、手芸が好きだったり、料理が好きだったり。それだけで、“~男子”と付けることにも違和感はある。女のものだ、なんて誰が決めたんだろうと思うし、職業で見ると、女性より男性がプロで働いているのが当たり前の世界でもある。
 正直、性別は絶対的にあるのだし、必要なものだし、それを切り離して考えることはできない部分もある。好きになる人は、私は異性として見てはいる。だけど、男だからこうでなくては、なんて思わない。その人はその人のままでいい。そこが好きなのだし、そのままでいてほしいから、全部肯定したくなる。パートナーに限らず、友達としてでもそれは同じである。

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 女だから力が弱いとか、高いところにあるものを取れないとか、守ってあげたくなるとか、女らしい恰好より、少しマスキュランのような恰好の方が似合うし、女らしさが出る感じがする。そんな一切女らしいといわれる要素のない私は、女として扱われることなんて本当に少ないし、そう思われることに納得もするが、ひがみがないとは言わない。だから、それでいい、そのままでいいと言ってもらえる喜びも知っている。だからこそ、男たるもの的なものをまったく求めないのもある。大前提として、人として尊敬できるかがベースになることはもちろんだが、それに男らしさみたいな要素を必要としないということを言いたいのである。
 この、“~女子・男子”みたいなのは、すぐにはなくならないだろうし、自分だって無意識に男性性や女性性にフォーカスしていることがあるのは確かだ。だけど、男や女を冠する名称はもうそろそろ必要ないんじゃないかなって思ったりもする。好きなものを好きでいいし、それを、「そうなんだ」ってすんなり受け止めれられるようになってほしいなと、子供らの世代に固定観念のような考えが、引き継がれないようにと考える最近である。

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