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「ことばは伝わるのか」

「ことばは伝わるのか」

ことばは伝わるのか。文章を書くときに悩むようになってどのくらいになるだろう。
わたしは本棚が何本もある家で育った。兄の蔵書が多かったのだ。
6つ年上の兄の蔵書は推理小説、SFなど国内外のエンターテインメント小説の宝庫だった。早川文庫、創元推理文庫、新潮文庫、角川文庫、単行本も何冊もあった。家に本がたくさんあるのが普通だと思っていたので、友人の家に遊びに行って本棚が無いと不思議な気持ちになったものだ。
わたし自身の本との印象深い出会いは、小学校に上がるくらいにプレゼントされたロバート・L. スティーヴンソンの「宝島」を読んだことからはじまる。
めくるめく、手に汗握る冒険譚を夢中になって読んだものだ。
独特の読み方なのかもしれないのだが、活字の描写をそのまま映像として解釈して、まるで映画を見るような感覚で本を読んでいる。
たとえば、当時NHKで放送されていたアニメーション「キャプテンフューチャー」の原作本を読んだときに“これはすごい、テレビで見ている内容と一緒だ”と感動したのも、映像として読む読書法と映像作品との親和性の高さゆえだったのだと思う。
必然と言っていいのだが、読書好きになるとともに映像作品も好きになっていった。

そうして最初は消費者としてむさぼるように本を読んでいたのだが(実際、高校時代は一日一冊ペースで本を読んでいった)。
大学に進むと、新入学、学校近くの本屋に平積みになっていたのはクリスマスカラーの装丁の上下巻、村上春樹の「ノルウェイの森」だった。作者の刊行順に読みたいわたしは「風の歌を聴け」から村上春樹の世界に引き込まれることになる。
のちになってわかることだがアメリカの作家、カートヴォガットの文体にも似た、短いセンテンスの積み重ねでひと夏のほろ苦い経験を一冊の本に仕上げた「風の歌を聴け」は私の中のオールタイムベストの一冊となる。
文章を書いてみたいと思い始めたのはこの本を読んだことが大きかったと思う。
だが、同時に文章を書くことの敷居の高さも感じていた。
村上春樹の文章は簡単なようでいて、研ぎ澄まされ洗練されていたのだ。
わたしが文章を書き始めるのはWindowsOSが発売されワードプロセッサが普及したのち、Webでの文章発信の方法として、ブログというものがあると知った2005年になってからだった。
はじめは毎日ブログを更新して夢中になっていたのだが、突然スランプに陥ることになる。
それは、友人が書く文章を目にした時からだった。心情を伝わりやすく流れるように書く友人の文章を読んで、私は文章を思い描くように書くことができなくなった。
それから何年もたち、今回こうして文章を書いてみる機会を得ることができた。
わたしのことばは伝わるのか。書いてゆくうちに何か見えてくるかもしれない。そう信じて書いてゆくこととしよう。
楽しみながら。

読書会通信用に書いた文章その1です。

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