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鍵が見当たらない*エッセイ

朝、職場に行くために出かけようとしたら家の鍵がなかった。
見当たらない、といろんな場所を引っ掻き回してみたが、見つからない。
確かに家のどこかにあるはずだ!と思うものの、その「どこか」がわからないのだ。
時計を見ると、遅刻しそうな時間だった。
私は、探すのをやめ仕事場に行くことにした。
家のドアはそっと閉め、そして私がいない間、誰も侵入しないことを切に願った。

子どもの頃、私は鍵っ子だった。鍵っ子とは、自分で鍵を開けて家に入り、そして鍵を閉めて遊びに出かける、鍵を所有する子どものことを差している。つまり私の家の両親は共働きだった。

小学生の頃、私はランドセルを家に置くと、鍵をかけすぐに友達の家に遊びに出かけていた。そんな私に、鍵を失くさないようにと、母は鍵に凧糸で編んだひもをくっつけた。真っ白の凧糸は、正直にいうと可愛くもなんともなかったけれど、そのひもによって鍵と私は一体になった。
首からぶら下げ、そっと服の下に入れておく。ブランコに乗ると私と共に鍵も大きく揺れた。放課後の私の相棒はたまにひんやりと冷たかった。

家の鍵を肌身離さず身につけなければならない子ども時代からは卒業したけれど、私はしょっ中、鍵を探している。自転車の鍵、ロッカーの鍵。
居酒屋で靴箱に鍵がついていた日には、靴をしまう前から無くさないか心配している。そして案の定、「鍵どこにしまったっけ?」となるのがオチだ。

私が鍵がないと騒いだことで、今までどれほどの人に迷惑をかけたか分からない。みんな親切で、一緒になって探してくれるのだけれど、たいてい出てこないし、出てきても私の個人的な荷物の中から出てくるものだから探す方も張り合いがないかも知れない。
例えば、コンタクトレンズとかを落としていたら、道端で探して見つけ出した時の発見者の喜びは大きい。

もっと鍵の教育を身につけておかねばいけなかった。だいたい、首からぶら下げている時点で、もう所有することを学ぶことを放棄している気がする。
私に鍵の教育を施さなかった親のせいにしてみる。

いやいや、普通はごく自然に鍵をなくさない術を身につけていくのだろう。
私にはどうやら欠落している部分らしかった。
失くさないようにするための対策はしてみた。大きいキーホルダーをつけたり、鈴をつけたり、でも結局どこかへやってしまうのだ。
どうしたらいいんだろう。

そんなことを考えていたら、「名前をつければいいのだ!」
と思いついた。例えば、大事なペットに名前をつけるように。そうしたら愛着も湧いて、どこに置いたかわからなくなるのも防げるのでは?

私は、私のどこかへ行ってしまった鍵に名前をつけてみることにした。
「鍵ちゃん」「鍵すけ」「鍵ぽん」なんだか可愛く思えてくる。
違った名前はどうだろう?「カトリーヌ」「エルフ」「さすけ」

やっぱり鍵は「鍵」とついた名前がいいのかも知れない。
「さきこ」と名付けてみても、さきこが鍵の名前だったことすら忘れかねない。

私は、職場から帰ると、そっとドアを開けた。誰も入っていない気配に安堵した。そのまま、手を洗ってから、部屋にしゃがみこみ、いろんなバックを床に広げ、もう一度全部の中を開けてみた。ポケットを見たり、バックをふったりしてみた。やっぱり鍵はなかった。
なかったか、と思って立ち上がって、箪笥の上をみたとき、それはあった。
あたかもずっとそこにいましたよ、という顔をして。

ほっとした私は名前を呼んでみた。「ただいま鍵ちゃん」





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