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ウルトラマンにはなれない男の子

僕がうまれてはじめて志した「将来の夢」はウルトラマンだった。
大怪獣に襲われる街。逃げ惑う市民。そこに現れる巨大な戦士。
どれだけ強い大怪獣にも、どれだけ卑劣な宇宙人にも、最後まで諦めず戦い抜く。
そんな最高にかっこいいウルトラマンに。

後々映画沼にどっぷり浸かることになる僕が、人生ではじめて触れた映像作品がウルトラマンだった。
毎週テレビにかじりつき、「がんばれ!ウルトラマン!」と声援を送り、熱狂していた。
そして初めて泣かされた映像作品も、ウルトラマンである。
ウルトラマンティガ51話『暗黒の支配者』にて。
主人公ダイゴがヒロインレナと隊長イルマに自分の正体を明かし、最後の戦いに向かうシーン。
そのシーンを見て、画面を指さし、「ダイゴが~ダイゴが行っちゃう~」と泣いているオムツを履いた僕の姿がホームビデオとして残っている。
この回は1997年の八月放送なので、僕は二歳になったばかり。
二歳の時点で僕はウルトラマンのことが、泣くほど好きだった。
そしてそんな大好きなウルトラマンに、僕もなりたかった。

「ウルトラマンになりたい」というのは「ウルトラマンのように人を救うことのできる、立派な大人になりたい」とかっていう抽象的で高尚なものではない。
ウルトラマンである。ウルトラマンそのものになりたかったのである。正確に言うと、ウルトラマンガイアになりたかったのである。
でっけー宇宙人だか神だかわかんない存在に変身して、これまたでっかい怪獣をぶん殴ったり、光線で木っ端みじんに粉砕したかったのだ。

僕はウルトラマンという生物がこの世に本当に存在しているもんなんだと、わりかし本気で思っていた。
もしかしたら大抵の子供は、たとえ熱心に特撮番組を見ていても、「まあ、言ったってこれは大人が作った番組、ウルトラマンなんて架空の存在なんでしょ」と薄々気づきながら、ある程度割り切ってみているのかもしれない。
しかし僕は違った。
毎週放送される番組も、「特撮番組」というよりは、「ニュース番組」かなんかだと解釈していたように思う。
毎週毎週よくこんな都合よくカメラ回してんなあ、日本のテレビ局は優秀なんだなあ、とか思っていた。
まあ子供なんてそんなもんだ。そんなもんだよね?だって二歳とか三歳だぜ?
とにかく僕はウルトラマンの存在を信じていて、いつの日か僕もウルトラマンになって悪の怪獣を倒すんだ、と本気で思っていた。

…ある悲しい事件を経験するまでは。

とある日曜日。
三歳になったばかりの僕は、両親に連れられてある場所に来ていた。
子供の僕にとっては、とても広く見える白い空間。
等間隔で丸テーブルと、それを囲む形で椅子が数脚ずつ置かれていた。
そしてなにより、その空間の前方には、幕で閉じられた状態の大きなステージがあった。
正確な場所は覚えていないが、たぶん市内の結婚式場かなんかだったんだと思う。

「これからウルトラマンに会えるよ」
両親はそう僕に微笑んだ。
な、なんだって…?今、なんて言った?
「う、ウルトラマンに会える…?」
「うん、そうだよ~」
いつもテレビの中でしか会えないあの!?
「ほ、本物!?本物のウルトラマン!?」
「そう、本物だよ~。あのカーテンの向こうからもうすぐでてくるよ」
「どのウルトラマン!?ガイア!?」
「ああ、うん、ガイアガイア」
両親の言葉に、僕の興奮は一気に最高潮に達した。

大方の人は察していると思うが、僕が連れてこられたのは所謂「ウルトラマンショー」と呼ばれるキャラクターイベントだった。
ウルトラマンの着ぐるみと怪獣の着ぐるみが、子供たちの目の前で熱い戦いを繰り広げたり、戦いのあとにはウルトラマンと握手や写真を撮ったり。
時には、マグマ星人主体でじゃんけん大会をやったりすることのできる、あれである。

だから会えるのは、当時の僕が言う「本物のウルトラマン」ではなく、大人が着ぐるみを着て演じる「偽物のウルトラマン」なのだ。
…いや、なんか悪い言い方になってるけど、当たり前である。
だって、実際本物のウルトラマンなんていないし。
というか本物のウルトラマンが来るんだったら、室内はまずいだろ。
身長40メートルはあるんだぞ、あの人たち。
小さな結婚式場の小ホールなんかに連れてこられてる時点で気づくべきだ。

でも三歳の僕はそんなこと考えない。
本物のウルトラマンについに会えるんだ、としか思うことができない。
だって「本物のウルトラマン」って言われたし。
お父さんとお母さん嘘つかないもん!

まあそんなわけで、僕のテンションは爆上がりだったわけだ。
当時の僕は、ウルトラマン漬けの毎日を送っていたのだから。
録画したVHSを何度も何度も、テープが擦り切れるほど繰り返し巻き戻して、最終的に画面がガビガビになってなんのこっちゃかわからん映像にしてしまうくらい好きだった。
大好きだった。もはや愛していた。
今風に言えばウルトラマンは僕の「推し」だった。
とくにガイアは僕の推しトラマンだったのだ。

会場に入ったのが早かったのか、まだ客はまばらで開演にはしばらく時間があるようだった。
僕はいつになったら推しに会えるのだろうとそわそわ、そわそわ。ガイアのソフビを片手に両親の周りをぐるぐる歩き回っていた。

早く推しに会いたい。
そして「大好きなんだ!」と愛を伝えたい。
早く。一秒でも早く。
僕はその欲望を抑えることができなかった。
それが間違いだった…。

開演前にも関わらず、僕は両親の目を盗んで、ショーが行われるステージに向かって走り出してしまった。
「かずき、待て!」
両親の言葉も耳に入らない。
だってこのステージの、このカーテンの向こうにウルトラマンがいるのだから。
本物の、憧れのウルトラマンが。
そんな純真な心で僕は禁断のベールをくぐってしまった…。

そこはまさにこの世のものとは思えない光景だった。

まず目に飛び込んできたのは怪獣の姿である。
レッドキングだ。
しかし、テレビで見るレッドキングとはまったく違った。
魂が。魂が完全に抜けてしまっているのである。
レッドキングの死骸がそこにあった。
テレビの中では、傍若無人に暴れまわるあのレッドキングが、僕の目の前では首をダラリとさげて、口をパックリ開けた状態で死んでいた。
そしてなによりおかしいのは、その死骸から中年のおじさんが半身を出していることだ!

…要するにまだ準備中で、着ぐるみを下半身だけ着ているアクターの方に会ってしまったのである。

でもここでもまだ、僕はそんな大人の世界を理解できない。
ウルトラマンの存在を信じているということは、怪獣の存在だって信じているのだから。
その怪獣の死骸から、おじさんが身体を出しているのである。
しかもなんか汗だくだし。
奇妙奇天烈な光景である。
思考がまったく追いつかない。
一体全体どういう状況なんだ…?もしかして、このおじさんに見えるのは実は宇宙人で、レッドキングを操っているのか…?
それがレッドキングの正体…?

そんなことを考えていると後ろから
「おい! 入って来ちゃだめだよ!」
と怒鳴り声が聞こえてくる。
振り返ると、そこにはさらに奇妙奇天烈なものがいた。

ウルトラマンガイアの死骸を下半身だけ着て、上半身の死骸をブラブラぶらさげたまま、怒り顔でこっちに近づいてくる、またもや中年のおじさんである。
ガイアの目は暗く、完全に光を失っていた。

「うわああああああ!」

僕は泣き叫びながら、入ってきたカーテンを再度くぐり、大急ぎで両親の元へ戻り、抱き着いたのだった。

ちなみに、なぜこんなにも詳細に、三歳のころの記憶が残っているかといえば、この事件の一部始終もホームビデオとして実家に残されているからである。
僕の奇行に気づいた両親の制止の声も聞かず、満面の笑みでステージにあがり、そしてその五秒後にこの世の終わりかというくらい泣き叫びながらでてくる僕の姿が。
このエピソードはうちの家族の中では鉄板で、何年かに一度(といってももうしばらく見てないけど)その映像を見ながら当時の話を聞かされるのである。
だから正確なことをいうと、今まで書いてきたものは僕が完璧に覚えているものというよりも、両親からの話とホームビデオを見て、僕が補完して作り上げた嘘の記憶部分も多いにあるとは思う。
まあ多少細部に違いはあるだろうが、大筋はこの通りのはずだからそこは許してほしい。

とにもかくにもこのタイミングで、さすがに馬鹿で幼稚な三歳児の僕も「ウルトラマンはこの世に存在しない、作られたものなのだ」ということを理解したのだった。
それは三歳の僕にとってはあまりに衝撃的で、この世の価値観がひっくり返る事件だった。
先ほど僕は当時ウルトラマンを「推し」のように思っていた、と書いたが、憧れ信奉していた、という意味では「神」と解釈していたともいえるかもしれない。
熱心な宗教家が突然、「神などいないのだ」とこの世の真理を知ってしまったわけだ。

そして同時に僕は人生で初めての「挫折」を経験した。
僕の将来の夢はウルトラマンだった。
でもこの世にウルトラマンなんて存在しない、そのことに気づいてしまった。
それは僕の夢は実現不可能な絵空事であると、自覚することに他ならない。
「そうか、僕はウルトラマンになれないんだ…」
ウルトラマンがいないことよりも、自分がウルトラマンになれないことが悲しくて、ワンワン泣いた。

言うまでもないが、その後に行われたウルトラマンショーは全く楽しめなかった。

その後、三日くらいはメソメソしていたとおもう。
あんなに熱心に見ていたはずのウルトラマンのビデオも見ることができない。
だっていないんだもん、ウルトラマン。こんなの嘘っぱちだい。

しかし、ウルトラマンが存在しないことを理解した僕は、立ち直り、思考を転換することができた。

「ウルトラマンになれないのならば、ウルトラマンを作る人になってやる」

そう思うことができたのだ。

特撮や映画が好きな父親に、どうやったらウルトラマンを作る人になれるのか、しつこく聞いた。
他にも初代ウルトラマンの監督だった実相寺昭雄氏の書籍を、図書館から借りてきて熟読したりした。
…まあ字がまともに読めないんで、途中に挿し込まれるイラストを見て「ほえ~」って顔してただけだけど…。

そして段々とウルトラマンがどうやって作られているのかを理解していった。
なにやら円谷プロなる会社が存在していて、そこがウルトラマンという番組を作っているらしい。
で、その会社の偉い人が円谷英二という人で、その人を中心にいろんな人の力が結集されてできあがったものを僕は見ているのだ、ということまで理解することができたのだ。
(一応言っておくとこの時点で円谷英二氏は故人である)

だから僕の小学一年生の「将来の夢」という作文には「円谷英二になる!」と書かれている。
ウルトラマンという架空の存在から、実在する人物にあこがれの対象が変わったのだ。
まあ、円谷英二っていう別の人間に成り代わるのが夢な時点で、まだちょっとズレてはいるのだが、それでもウルトラマンを本気で目指していたころに比べては大きな成長である。

そして「ウルトラマンを作る」という夢は、いつしか「ウルトラマンのような人を魅了する作品を作りたい」に変わり、その後紆余曲折あり、最終的には「脚本家になりたい」というところに落ち着いた。
大学もそれに関連するところに入学した。
そこでも紆余曲折あり、メンタル的に芳しくない時期を経験し三回も留年したりしたが、脚本家になりたいという思い自体は変わらないまま、なんとか大学を卒業。
そして今もときたまシナリオのコンクールに応募しながら、物語を書くということに関連した仕事をして、生活をしている。

つまりウルトラマンに出会ったから、そしてあの事件を経たから、今の僕がいるのだ。
あの事件がなくて、もう少し成長してから順当にウルトラマンが存在しないことに気づいていたら、もっと他の人生を歩んでいたかもしれない。

辛いこともあるけれど、今の人生も中々楽しい。
だからあの事件があって結果的によかったな、と今は思う。
ウルトラマンはもちろんのこと、夢を壊してくれたアクターの方々にも感謝している(というかどう考えても勝手に入った僕が悪い。ごめんなさい)。

僕はウルトラマンにはなれなかった。
だけど、僕の中には確実にウルトラマンがいるのだ。
ありがとう、ウルトラマン。
これからもよろしく。



…最後に関係ない話だが、今日久しぶりにパチンコに行って「Pウルトラ六兄弟 ライトバージョン」を打ったら二万負けた。
くそったれ。レッドキングに負けんなよ、ウルトラマン。
継続率90%だぞ。












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