見出し画像

🖊️芥川龍之介 と 中野重治 と 堀田くん とんでもない、この人は学問的道徳的に間違ってる >全体的にやりすぎ男

昭和二年の六月ころ中野重治は芥川龍之介を田端の自宅に訪れて、夕食など御馳走になった。そのとき、芥川は中野に「君が、文学をやめるとかやらんとかいってるってのはあれや本当ですか?」と問いかけ、まごつきながら「いえ、そんなことありません」と中野が答えたのに対して、「そう、そんなら安心だけれど」と呟くように言ったのである。安心だけれど?そういう言い方はすこし傲慢じゃないかナ、と中野が思いとどまっているところへ、芥川がわれわれはもう古い、思想の上でも感覚の上でも君らは新しい、それだけに古いものとして、やはり言っておきたいのは、人は持って生まれてきたものを大事にしなければならぬだろうということだ、と自分にいいきかせるような調子で言ったのである。また、しばらくたって「ろば」の諸君もいいけれど、才能として認められるのは、堀君と君とだけでしょう、というようなことを、芥川はいくらか沈んだ調子で芥川はしゃべりもしたのである。さきに、すこし傲慢じゃないかナと思った中野は、この芥川の言葉をきいて、とんでもない、この人は学問的道徳的に間違ってる、こんなことを言って自他ともに軽蔑したことを知らない、というふうに考えるのだ

今回はガチ。俳優漫画家英雄映画監督物理学者、芸事で集団があればいつの世でも世代交代は。しかし光景が中野重治とは、というか、中野重治って誰ってなってるかもしれない。これも中野重治のエッセイからの孫引きになるはずだが出典が見つかったら書き換える。

79年没で青空文庫にはまだ登場しない。昭和2年は芥川が死ぬ年だが、芸術家として優劣をつけられたのが中野重治は気に食わない。この原動力がプロレタリア文学に方向に行って、おそらく長生きしたから長生きすればそれは重鎮となる。そして小林秀雄はほぼ同時代のはずだが、菊池寛に囲ってもらえたらそれは食っていけるはずなので、まあなんか論争やいざこざはあったはずで、小林秀雄の書きぶりを見ると中野重治が狂犬か何かのようにも思える。

中野重治君へ 小林秀雄からのメッセージ

君にいわせれば、僕は批評的言説の混乱というものを努めて作り出そうと心がけてきた男だ。そして愚かなエピゴーネンを製造し、文学の進歩を妨害している。そういう奴は退治してしまわねばならぬという。豪そうなことをいうなとは言うまい。しかし、、君が僕を眺める眼は大変感傷的なのである。もし僕がまさしく君のいう様な男であったら、僕が批評文でメシを食って来たという事がそもそも奇異ではないか。

僕等は、専門語の普遍性も、方言の現実性も持たぬ批評的言説の混乱に傷ついてきた。混乱を製造しようなどと誰一人思った者はいない、混乱を強いられて来たのだ。その点君も同様である。今はこの日本の近代文化の特殊性によって傷ついた僕等の傷を反省すべき時だ。負傷者がお互いに争うべき時ではないと思う。昭和十一年四月 小林秀雄

芥川の家に呼ばれた若い文士の卵も、9年もたてば文士ワーキャーも終えて筆の力もついて世の中への発言力もついたに違いない。小林秀雄の文壇(=文藝春秋メディア)での処世術、筆の力ぶつけ合いルールは他で触れるが、中野重治については徹頭徹尾「目に見えているもの」を噛み付くに徹している。それが喧嘩のルールりそれだけ当時の中野重治が芯を食っていて楯突くとめちゃめちゃ面倒なことになる雰囲気が感じられる。

冒頭の孫引きエッセイ、なんか読んだ記憶があって芥川の話聞いて悶絶しそうになってそのままずんずん東京を徘徊するみたい話だった気がする。

引用中の掘君については、堀辰雄のことで、確かに驢馬でその後名前に記憶があるのはこの二人だが、中野重治は才能やら優劣が気に入らない。

プロレタリア文学者の大事件といえば1933年(昭和8年)小林多喜二の命日で、小林秀雄のエクスキューズも、その後の中野重治も、小林多喜二の死を乗り越えてある印象はある。

幕末のどす黒い残党世代か、新世代の言論統制勢か、そのどちらともかは置いておいて、とにかく小林多喜二は死んだ。翌年文藝春秋者は文士劇を久々に復古、新たな読者層との信頼関係を強めるに至ったはずで、小林秀雄も駆り出されて出ている。それが発端かは忘れてしまったが、とにかく中野重治の中で渦巻いていたとぐろのような情念は、デビュー時の小林秀雄にはあったが、この二人はめいめい別の方向を向いて歩いて行って、並び称されることもおそらく菊池寛のせいでしない。ただ喧嘩の仕方は似ている


川瀬名人みたいですね https://amzn.to/3bSNG33

 われわれは一歩を進めなくてはならない。われわれの絵画を成長させるために、われわれの絵画を文字どおり労働者階級のなかに持ち込む具体的方策を論じなくてはならない。問題は具体的方策そのものにかかっている。
一、作品が多量に創られること。
二、作品が最も短期間で創られること。
三、作品が最も廉価(安く)創られること。
ここにわれわれは印刷術につきあたる。
 印刷術をわがものにするとき初めてわれわれは右の条件を大体において満足させうる。
だがわれわれはどの種類の印刷術に突きあたるのか。われわれの突きあたるべき印刷術の種類を決定する条件は主として次のようであろう。

一、絵画の絵画としての重要要因である色彩が制限されないこと。
二、最も単純な手続きのものであること。
三、可能ならばそれの特質そのものが絵画的に駆使されうること。

 そしてわれわれは石版印刷術に突きあたる。
 だがここに石版に突きあたるということは、原画が石版屋にまわされるという意味ではありえない。われわれの制作者が自分自身「石」を研ぐことが必要なのである。最後の「三」の条件はそのとき初めて生かされる。
 われわれが石版術をわがものにするときわれわれの絵画が開花に向かうであろう。われわれはもはや石版屋の手で原画が骨抜かれることをおそれる必要がない。われわれはもはや石版屋の欲望に限定する必要がない。われわれはもはや一個の資本家的範疇である貨幣の前に、絵画へその表現を迫るプロレタリアートの力を押し殺す必要がない。
 そのときこそ絵画がプロレタリアートそのものになりはじめる。石版術がプロレタリアートの手でよみがえる。そしてそのときわれわれは、それをわれわれがわがものとしていることのゆえに、それにむかってわれわれがただ後から歯噛みをするしかなかったところのあの検閲の専制のなかを最も敏捷に縫い走ることができる。これを圧殺しようとする官憲のいっさいの試みがただ試みであるにとどまる。
 困難に堪えて石版術をわがものにする必要があり、貧窮に堪えて「石」を買う必要がある。

一九二八 中野重治


お願い致します