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🖊️井伏鱒二 🪣‪🎣 小林秀雄 文学番長

昭和五十七年
 その年の秋、河上徹太郎が亡くなったので、柿生の河上のうちへお通夜に行くと、いろんな人が駆けつけて大勢の人が庭の外まであふれていた。私は戦績の人に挨拶すると、寺田君に会ったので庭に出た。折からそこに来合わせた安岡君と立ち話をしていると、小林君が来て、「おい弥生書房の俺の解説をたのむよ」と云った。
 これは弥生書房で出す「小林秀雄全集」の解説のことで、書房主人が私に書かせようとしていた原稿のことである。書房主人は私に書かせるようにしたいと初めから考えていたらしい。私はなるべく他の人が書けばいいと思っていた。小林君は厳正な批評家と云われているから、その当人の作品について書くのはなんだか遠慮の気持ちがあった。もし小林君がそれについて何か云ったら、言いのがれをしたいと思っていた原稿である。
「僕は他人の作品について、かれこれ云ったことないよ。批評文を書いたことないよ」
私がそう云って逃げようとすると。
「解説は簡単でいい。三行でいいよ」と小林君が云った。「解説三行とは、それまた手きびしい。聞いたことがないね。とにかく僕は批評文は書けないから、誰か他の人に任してくれよ」
「いや、俺はお前さんを信用しているよ。三行でいいから、頼んだよ」
小林君はそう云って、そそくさ家のなかに入った。大勢の人混みのなかだから、言い争っている隙はない。
 私は傍にいた寺田君と一緒に、安岡君の行く方向に歩いて行き、板の上に止めてあった安岡夫人の操縦する車に乗って、寺田君も一緒に荻窪の蕎麦屋に行った。あとからこのときのことを安岡君に聞くと、家のなかから聞こえるカトリックの坊さんの聖書を読む声と、家の裏から聞こえる虫の声が、代わりばんこに聞こえていたそうだ。安岡君がそう云っていた。また誰かの噂だが、聖書を口語文で朗読するのはひどいと小林君が云っていたそうだ。小林君に最後に会ったのは、この河上君のお通夜のときであった
。昭和五十八年 井伏鱒二

これは間違いなく作家の顔だ、間違えていたらごめんなさい。<<間違えてた。作家の顔は小林秀雄のエッセイ集

こちらでも説明したが、小林秀雄太宰の世代はだいたい同じで、金銭的なバックとしては菊池寛がいて、菊池寛の隣には芥川がいるので、師弟関係的に井伏太宰の本を追いかける前に時代風景としては小林秀雄とか、文藝春秋文閥とでも呼べるものが昭和初期を彩っているので、こちらを理解しない手はない。井伏鱒二はトキワ荘メンバーでいうとテラさん的な立ち位置とわかりやすく書いたつもりがテラさんて誰となるので、仕方がないが、そのまま比喩を続けるなら、手塚治虫が菊池芥川の合体魔神みたいなものか。

もう二人とも晩年で、戦後も戦後だし、先輩後輩もないのだが、贔屓目に見ても小林秀雄はとにかく偉そうで、不遜なエピソードが多い、あと酒乱でモラハラされたと宇野千代がぼやいているとか。ということで、バックには菊池組がいるので、井伏も先輩だがあとがきかけとかそういう感じで晩年もこき使われるが、そもそも上下関係が初めて読むとわからないので、なんとなく作家と批評家という関係性でちょっと無理言われた微笑ましい場面にも読める。

通夜で出てくる河上徹太郎は使ってた古本屋が悪いのか枕詞のように「近代の超克」があって、それしかやってないぐらいの印象がある。あとは仏文の翻訳とか。しかしながら、とにかくあの辺りの年代で、ほとんど番長のように幅を利かせていたのは小林秀雄で、筆の力もそうかもしれないが人間的な強さがあるのかもしれない。しかし、今となってはモラハラみたいなエピソードばかりなので、今の時代にはコンプライアンス的にダメな批評家かもしれず、長期的には井伏鱒二のドリトル先生の方が安心して今も読めるし、心の支えにもなった。

あと「厳正な批評家と言われている」は書き方からしてそもそも批評に無関心と若干いじっている。

文中安岡は安岡章太郎のことで(だよな)、世代はかなり後ろで戦後活躍した。長寿でついこないだまで存命だったがそのうち出てくる。


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