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🖊小林秀雄x政宗白鳥 聞き手:河上徹太郎

河上徹太郎 でも、とにかく小林は好きだったな、白鳥さんが
小林秀雄 そう。
(略)。ハッハッハ。そうすると創元社のやつ驚きやがって、先生、逆さまだというと、どっちでも同じ事だ(笑)。
河上 そういうところは、ちょっと菊池さんみたいなところがあったね。
小林 あるな。
河上 一種の合理主義だからね。
小林 理想主義でね。
河上 理想主義で合理主義・・・、ぼくは今度きみと正宗さんとの有名なトルストイ家出論争というのをまた読み直してみたのだよ。そうしたら、当時感じたのとちょっと違ったものを感じたな。当時ぼくは間違えて批評していたんだ。きみは理想主義で、向こうがリアリズムだというふうにぼくは簡単にさばいていたけれども、そうじゃないな。向こうもリアリズムじゃないよ。あれは一種の理想主義だ。
小林 うん、そうだ。
河上 だから同じことなんだ。きみと同じことを言っているのだ。
小林 うん、同じことなんだよ。まあそういうことも、きみと二人だと議論になりませんわ(笑)。

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 宇野千代が書いた酒乱エピソードが自分調べで有名な小林秀雄だが、

「やあ、」とも、小林秀雄は言いませんでした。しかし、五、六年振りに会う小林は、以前にそうであったよりももっと穏やかに、また優しく見えました。微笑しているとも思えない、しかし確かに微笑しているその表情は、あの、絵で見るモナ・リザの顔のようでした。年齢とともに、だんだんこう言う方向に考えが移行しているのだな、と私は思ったりしたものです。(略)私はこう付け加えたのです。「まだ海のものとも山のものとも分からないのですけれど、出来ることならこの小説で、私は、あの、ドストエフスキーの世界を描いてみたいと思っているのです。」小林の顔からは、まだ、あのモナ・リザの微笑は消えませんでした
 そのとき辺りだったでしょうが。食卓の上に、豆腐、蕨、鯉の洗いなどの料理が並び酒が出ました。私はまた思い出して小林に、私の「天風先生座談」を読んで貰った礼を述べました。「あれは不甲斐ないね」初めて小林が口を切りました。「あんたには、あんなものでも書いてやろう、と言う気があるんだ。」と言ったとき、小林の顔には、もうあのモナ・リザの微笑はなく、酒が入ったためでしょうか、顔中が赭くなり、目が坐っていました。(略)しかしそれでも、抗弁せずにはいられないものがあったのです。「違うんです小林さん」と言いかけますと、小林はもう一度斬り込むように言いました。「それに何だって、ドストエフスキーを書くだって」宇野千代

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もはや文壇ハラスメントともとられかねない酒乱ぷりを晩年細かく思い出す宇野千代の筆致が光り輝いている。
一方の河上徹太郎はマイケルの良き理解者デボンとでもいったように単にキャッキャッやっている。
読んだ当時トルストイ論争というのがいつか試験に出るのかもと思い調べた記憶があるが、今となってはトルストイも小林秀雄も河上徹太郎もどうだってよくなっているので、良くは覚えていない。
白鳥は人生の師になるかもしれないので時系列だけ抑えておく。

レフ・トルストイは晩年に家出しました。彼は1910年、82歳の時に人生の哲学的および霊的な探求のため、突然家族を離れて出奔しました。トルストイは非暴力、貧困の生活、キリスト教の教えへの深い信仰を追求しており、その哲学は彼の家族や財産との関係に対する彼の見解と矛盾していました。トルストイは出発後間もなく、ロシアのアスタポボ駅の駅長の家で肺炎のために亡くなりました。彼の死は世界中で大きなニュースとなり、彼の思想と作品への関心を新たにしました。トルストイは、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などの作品で知られるロシア文学の巨匠ですが、彼の人生の最後の行動は彼の個人的な信念と精神的な探求を強く反映しています。

アスタポボ駅は現在トルストイ駅といわれているようだ。


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