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おたく目線のミュージカル訳詞論

幸か不幸か、ミュージカルを観始めた子どもの頃から、日本だけでなくブロードウェイやウエストエンドで観劇する機会の多い環境にあった。キャストのパフォーマンスとか、なんなら脚本や音楽や演出の出来以上に、とかく訳詞と音響が気になってしまうおたくに育ったのはそのためだと思う。若い頃は――いや、この仕事を始めてからもしばらくは、そこには〝正解″があると思っていた。おこがましくも、自分が良いと感じる訳詞と音響こそ正しいのに、みたいな気になっていたのだ。でも今は、訳詞も音響も結局は〝好み″なんだな、という結論に達しつつある。

つまりこれから書くことは、私はこういうのが好みです!という個人的な訳詞論(音響論は、また別の機会に)。各々の哲学を持って仕事をしているであろうプロの訳詞家の方々や、協働している演出家・役者の皆さんからしたら、鼻で笑いたくなる内容かもしれない。それでも、訳詞の奥深さを示すことにはなんらかの意味があると信じ、そしてうっかりミュージカル初心者の皆さんが私と同じ好みを持つよう誘導(洗脳?)できたら将来的に私好みの作品が増えるかもしれないとの淡い夢も抱き、30年以上のおたく生活で考えてきたことを綴ってみようと思う。

音? 意味? それとも趣き?

そもそも、なぜ訳詞が一筋縄でいかないのかという大前提の部分を念のためおさえておくと、日本語はまとまった意味を伝えるのに要する音数が極端に多く、また多くのミュージカルの原語である英語とは語順が逆の言語だからだ。著作権の問題などもあろうかと思うので架空の歌詞を例に出すと、「I'm a geek」は英語なら3音で歌えるが、直訳だと「私(僕・俺)はおたくです」の8~9音。そしてきっとメロディーは、目的語である「geek」を強調するため、3音目で盛り上がるように作られている。3音目に意味のある言葉が来るような3音は日本語には存在しないと言って良く、ゆえに完璧な日本語訳というのは難しいを越えて不可能なのだ。

そこで訳詞の選択肢としては主に三つあり、一つ目が「お・れ・ギーク」など、作曲家の意図に沿った3音とする〝音優先″のやり方。ただし、これだとギークの意味を知らない観客には伝わらないし、現状女性の歌詞としては成り立ちにくい。二つ目が「おた・く・です」など、3音の中にそれ以上の音を当てはめてしまう〝意味優先″のやり方。これは音楽的に無理やり感が出るし、最も盛り上がる3音目に「です」が来てしまうもったいなさも否めない。そして三つ目が、この3音はとりあえず「お・た・く」あるいは「お・れ・は」などとして前後のメロディーで意味を補足したり、いっそ(自己紹介ソングと仮定して)「き・い・て」くらい抽象的な3音にしちゃったりする〝趣き優先″のやり方。収まりはいいが、これを繰り返していたら〝前後のメロディー″がいくらあっても足りないのは自明だろう。

というわけで多くの場合、音優先・意味優先・趣き優先の組み合わせにより歌詞は訳される。そのバランスが最も良いと感じるのが、岩谷時子訳による『レ・ミゼラブル』と『ミス・サイゴン』(詳しくはコチラ)。だがこの果てしない逆訳の作業が可能だったのは、ブーブリル&シェーンベルクがこだわりの人だったこと、岩谷氏が豊かな語彙と詩情の持ち主だったことに加え、翻訳ミュージカルの黎明期だったからでもあるのではないか。世界展開が当たり前になった今となっては、日本側も作詞作曲者側も、これほど根気強く訳詞に当たることはない気がしてならない。

意訳? 直訳? はたまた超訳?

そして実は、『レミゼ』『サイゴン』で完璧に近い訳詞が可能だった理由として思い当たることがもう一つ。どちらも日本語版にとっての〝原語″は英語だが、大元の詞はフランス語で書かれており、その英語訳を主に担ったのは作詞だけを生業としてはいない人々だ(『レミゼ』のハーバート・クレッツマーはジャーナリストでもあり、『サイゴン』のリチャード・モルトビー・ジュニアは演出家やプロデューサーとしても活躍している)。英語詞の時点で、詩人や専業ソングライターが書く詞ほどは修辞的でない――と言うと語弊があるが、まずは直訳し、その意味を限られた音数で伝えるための方法を考えることに集中できそうなものなのだ。

一方、スティーヴン・ソンドハイム、スティーヴン・シュワルツ、パセック&ポールらの詞は、まず直訳が難しい。というか、〝普遍的な(普通の)ことを独特かつ素敵(詩的)な言葉で表現する″という作詞の神髄を実践し過ぎていて、日本語に直訳するとその素敵(詩的)さが抜け落ちてしまう。たとえば「Corner of the sky」「Defying Gravity」「You will be found」を、「空の一角」「重力に逆らっている」「あなたは見つかる」と直訳したら全然素敵じゃないではないか。かといって「居場所」「空高く飛ぶ」「一人じゃない」などと意訳したら、それは普遍的な(普通の)ことを言っているだけで、彼らの詞を訳したことにはならない。英語詞のまま歌う選択肢もあるが、正しく発音されないと美しく響くことも聴き取ってもらえることすらない上、意味が伝わらないリスクも覚悟する必要があるだろう。

そこで登場するのが、同じ普通のことを、別の(日本語ならではの)素敵な言葉で表現するという裏技。ただしこれは、訳詞者の個性がかなり入り込むことになるため、下手をするとオリジナルを改ざんすることになりかねない。よってこれが許されるのは、いわゆるレプリカ版ではなく日本オリジナル演出による上演で、なおかつ演出家が訳詞も兼ねる場合のみというのが私見。もはやオリジナル版とは別物として観るからかもしれないが、小池修一郎氏や福田雄一氏の作品にはこの好例がいくつかあり、『レミゼ』『サイゴン』とは全く別の意味で私好みである。ただしやはり別物である以上、ブロードウェイ版は大好きだったけど日本版は作品として全然だった、みたいなことにもなり得るのがこのパターンだ。

また英語ならではの修辞と言えば、厄介なのがライム(押韻)の文化。たとえば前述の「I'm a geek」になら、「so to speak」といった同じ響きで終わるフレーズをつなげて耳心地を良くするものだが、このつなげられるフレーズには大きな意味がない場合も多い。それを生真面目に、「おた・く・です/い・わ・ば」と訳しても仕方なく、かといって「お・た・く/この・ぼ・く」みたいな日本語ライムはサムくなりがち。いっそライムを無視して「お・れ・は/お・た・く」などとするのが無難ではあるが、サムくない日本語ライムに置き換えられるのであればそれに越したことはなく、そんな偉業を見事にやってのけたのが『イン・ザ・ハイツ』のラップ部分を担当したKreva氏だ。同じリン=マニュエル・ミランダ作の『ハミルトン』が日本語上演される日が万が一来た暁には、訳詞はKreva氏一択だと思っている。

乗っけ過ぎにご用心

さてここまで、私好みの訳詞という観点で話をしてきた。ここでその中から、私好みではない訳詞の話を〝抽出″していこう。まだ理解できると思える順に並べると;生真面目な直訳すぎて詞として素敵じゃない、サムい日本語ライムが連発される、やたら原語詞のまま歌われる、意味がばっさりと単純化されていてせっかくのソングライター独自の表現や世界観が台無し、日本オリジナル演出が許されているわけでもないのに作品が別物になっている。そして最後、個人的に最も理解不能と感じるのが、音・意味・趣きのどれが優先されているか分からない訳詞である。

たとえば本来「ターータタタ」と、伸ばす音のあとに三連符が続く全4音のフレーズがあるとする。ここに「タタタタタタ」と6音分、下手すると7~8音分の日本語が乗っかっていることはままあり、それ自体は――感覚的には集合体恐怖の対象を見ているような気持ち悪さがあるものの――意味を原語と同じにするため、あるいは素敵な日本語にするためであるならば理解はできる。またせめて、最後が原語と同じ母音で終わっていたりすれば、それなりの配慮を感じることもできる。だが、意味は違うわ趣きもないわ帳尻合わせもないわだとどうしても解せず、これ誰得?と激しく思ってしまうのだ。ちなみにこの〝集合体″っぽさは、試しに「う・さ・ぎ・追~い・し」の間に「うさぎ・追いし・か・の~山」まで歌い切ってみていただけると、英語には一切馴染みがなくてもある程度イメージできることと思う。

あわよくば初心者の皆さんを洗脳したいと思って書き出した割に、誹謗中傷に見えるのを避けようとするあまり具体例をほぼ出さずに話を進めてきたため、だいぶ伝わりにくい文章になってしまったのだが。私が理解不能と感じるトップ3(誰得、別物、台無し)みたいな作品は実は、ここ数年に翻訳されたものの中にはそうそうなかったりする。つまり私好みの作品は確実に増えてきているので、この調子で増え続けてほしいし、15年以上前に日本初演された作品(『レミゼ』『サイゴン』を除く)の訳はぜひ見直されてほしい、というのが結論といえば結論。…とか言いながら、なんだかんだ慣れ親しんでしまっている歌詞が変わったら、それはそれで寂しいとか言い出すのだろうけど。チキンな上に面倒くさいおたくでごめんなさい。

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