短編小説・私の物語

 いつも、あの子はあの場所に立っていた。新宿駅の西口通路。大勢の人が行きかうカオスの中に一人立ち止まり、大きな柱を背に彼女はいつもそこに一人立っていた。
 彼女の手には「私の物語・一冊300円」という手作りの札が、遠慮がちに掲げられている。 
「私の物語・・」
 私は気になっていた。その通路を通る度に、彼女と、その小冊子の中身が気になった。確か、彼女を初めて見たのは高校生の時だった。その時は、ただ変な人が立っているなということくらいしか思わなかった。しかし、何年も何年も同じ場所で立つ彼女を見続けていると、次第に何か気になり始めてくる。毎日立っているわけではないのだが、見かけるタイミングで、確実に一定の日にち立ち続けているのは分かった。
 彼女はいつも白を基調としたロング丈のワンピース様の服に身を包み、何を見ているのか、ほとんど顔も表情も動くことなく独特の穏やかな雰囲気で立ち続けている。
 肌は病的に白く、小柄で、しかし、それでいてどこか神秘的なかわいさを滲ませていた。そこにもどこか私は惹かれるものがあった。
 年齢は、若くも見えるし、大人にも見えた。十代に見ることもできるし、二十代にも見ることができた。ただ不思議なのは私が初めて見た時と、ほとんど見た目が変わっていないことだった。初めて彼女を見てから十年以上が経っているはずだった。
 私は、そんな彼女に、だんだん興味を持つようになっていた。いつも、その通路を通る度に彼女を見た。冊子は売れている様子はなかった。何度も見ているが、売れているところを見たことがなかった。一度、紳士然とした老人に話しかけられているのを見たくらいだった。
 しかし、興味はあってもなかなか、声をかける勇気までは持てなかった。何年も彼女を素通りするという習慣がそうさせているのか、生来の気の小ささのためか、それ以外の何かなのかは分からなかったが、なぜか、気楽に彼女の前に立つことができなかった。
 だが、ある忘年会のあった会社帰りの夜だった。大分夜遅くなってしまったが、いつものように西口の通路を歩いていると、彼女がいつものようにそこに立っていた。
 私はその時、なぜかふいに決意した。私は歩く方向を変えた。
「あ、あの」
 わたしは彼女の前に立った。彼女が静かな表情で私を見る。近くで見ると、遠くで見る以上に彼女はかわいい顔をしていた。そのことに少し私は驚く。
「一冊・・」
 私は緊張気味に右手の人差し指を一本上げた。
「はい、300円です」 
 彼女は動ずる事もなく、自然な感じでそう言った。儚く薄く、小さなそれでいて、とても美しい声だった。
「あ、はい」
 私はお金を渡した。ちょうど小銭で300円あった。
「ありがとうございます」
 お金を受け取り、私に冊子を渡すと、彼女はやはり小さくそう言った。そして、薄っすらと微笑んだ。それは、本当に消えゆく陽炎のようなかすかな微笑みだった。しかし、そこにはどこかやさしさが滲んでいた。
「・・・」
 それ以上、私は彼女に声をかけることはできなかった。私は、冊子を受け取ると、頭を下げ、すぐに彼女の前を去った。
 その帰り道、ついに買ったという小さな興奮と共に、最後に見た彼女のやさしい微笑みが、妙に私の頭にこびりついていた。
 私は早速家に帰り、風呂に入ると、その小冊子を開いた。全部で100ページもない小さな手作りの薄い冊子だった。表紙には小さなかわいい四葉のクローバーがクレヨンでデザインされていた。
「・・・」
 私は帰りがけに買って来た缶ビールを片手に読み始めた。
 スラスラと頭に入ってくるやさしく語りかけるような文章だった。淀みなく、滑らかにページが繰られていく。
「・・・」
 そこには彼女の小さな幸せが書かれていた。彼女のなんてことない、本当になんてことない日常の小さな幸せが書かれていた。
 気づけばあっという間に、私はその冊子を読み終えていた。時計を見ると、深夜一時を少し回っていた。十二時ちょっと過ぎから読み始めたから、一時間ほどが過ぎただけだった。
 私はしばし、その場に固まっていた。
「・・・」
 不思議な読後感だった。決して感動しているわけでも、興奮しているわけでもなかった。そんな、現代の過剰な刺激に増幅されたエンターテインメントにすぐれたおもしろい物語ではなかった。
 しかし、私は幸せを感じていた。薄っすらとではあるが、確かに幸せを感じていた。心がほの温かい湯たんぽに温められているような、ほどよい心地よい温かさに包まれていた。深夜の静けさの中で、私はじんわりとその温かさを心に染み入るように味わっていた。
「彼女の物語・・」
 私は呟く。
 彼女がこれをなぜあそこに立って売っているのかは分からなかった。でも、それは彼女の心なのだと思った。彼女のやさしさなのだと思った。
 この殺伐とした無機質な都会の喧噪の中で、儚く消し飛んでしまいそうなこの小さなやさしさを、彼女は配っているのだ。
 私は泣いていた。気づくと私は涙を流していた。彼女のそのあまりの小ささに、私は泣いていた。
 なんてことだろう。彼女はこの小さな幸せを、何年も何年もあの場所に立ち続け、一人配っていたのだ。
 私はどうしようもない切なさに打ちひしがれ、そして、同時に、今この世に生まれてきてよかったと、噛みしめるように思った。

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