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ヘレン・ケラーの「先生」? だった塙保己一に会いに…|迷想日誌

10連休で賑わったゴールデンウイークのある暖かい日、塙保己一(はなわほきいち、1746~1821)の出生地、埼玉県本庄市児玉町にある「塙保己一記念館」に1人訪れました。静寂の記念館で、7歳で視力を失いながらも苦労を重ね学問を究めたという塙保己一の生い立ちを知りました。
東京(江戸)に「和学講談所」を開設し、ここで多くの門弟を育て、水戸藩から依頼された「大日本史」の校正を行い、そして国内の重要書物をまとめた「群書類従」を編纂しました。

一方、ご存知のヘレン・ケラー(アメリカ、1880~1968)は、言葉、視力、聴力を失った三重苦の社会活動家、教育家です。
そのヘレン・ケラーの幼少からの心を支えた「先生」が、塙保己一だったのです。
ヘレン・ケラーは、昭和12年(1934)に来日した時、東京渋谷にて亡き塙保己一の木造と愛用の机に触れながら次のように話しました。

「私は子供のころ母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。
本日、先生の像に触れることができましたのは、日本における最も有意義なことと思います。
先生の手垢のしみたお机と、頭を傾けておられる敬虔なお姿とには心から尊敬の念を覚えました。
先生のお名前は、流れる水のように永遠に伝わることでしょう」

盲目となった塙保己一は、一時は自暴自棄となり江戸城のお堀に身を投げて自殺まで考えましたが、書物が好きだったことから国学の勉強を勧められ、盲人の学者として最高位の「総検校」(そうけんぎょう)まで上り詰めました。

不思議なことに、アメリカ人のヘレン・ケラーが母親から塙保己一のことを教わり(家庭教師から知らされたとの説あり)、偉人、先生と尊敬し、そして心の「支え」となっていたというのです。
塙保己一は、晩年、盲目だったからこそ多くのことを成し遂げられたと語っています。
さまざまなハンディーは、時として人間に計り知れないパワーを与えてくれるのでしょう。

今回、記念館とともに塙保己一の生家、読書の面白さを初めて教わったという近くの寺院などをめぐりました。心を動かされる連休となりました。

労働新聞編集長 箱田 尊文

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