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日本語と英語 性質の違い 番外編「自己」

日本語の自分はどこまでもとおくにいける。


この意味がわかるだろうか。


日本語と英語の「自分」について考えた時、英語は自分と他者を区別して考えるが、日本語は自分をどんどん広げてどこまでも伸ばしていける。


例えば、最もわかりやすい例で言うと、

日本語で私や僕に友達や家族を加えた言い方をする時、私「達」や僕「達」と複数を表す「達」を付け加える。

加えるだけで私であることは変化していない。


一方で英語では、Iが複数形になるとWeに変化する。

あなたは何人集まろうとYouなのに、自分に何かが加わるとそれはもう別物になるのだ。


ここまでは実は、塾講師として現代文を教えていた時に「現代文 標準問題精講」という教材の中で出会った話。(現代文を教える上でもこうした深い考えを知る上でもすごくためになる)

ここからはそのことを基にして考えた私の推察になる。


関西弁では特殊な例として、相手のことも「自分」と呼んだりする。これがもし、自己の拡張の一部ならば、関西弁に親近感を覚える要因の一つとなっていることも納得がいく。


相手を自分の中に取り込むことで、相手と自分を同一視して一気に距離を縮めたら、相手の立場に立ったりする。


小さい子供に対して

ママに見せてごらん

などと自分を相手から見た関係性で呼ぶのも、その表れだ。相手の立場に立つということは、自分の領域を相手の領域まで広げ、包み込むあるいは取り込んでいるということ。


日本語と英語では、当然ながら言葉の成り立ちも、そこから形成された文化も違う。


だが、言葉の違いに目を向けることで我々の無意識の中に刷り込まれている価値観や文化に気づくことができる。


それもまた言語の面白さ。

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