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「生きてりゃいいことある」じゃ響かないから詩人の言葉を借りるよ

夏休みがもうすぐ終わる。

夏休み終わならいで~~と心底思っていても、やがては始まる。1か月も授業してないからブランクがある。子どもの前に立つの緊張する。1か月も会ってないと生徒は見違えるほど心も体も成長するので、今から心臓バクバク。自分の方が幼稚なんじゃないかとビクビク。

で、新学期が始まる直前になるとニュースでよく話題になるのが、青少年の自死についてだ。過去の自殺者の人数を表した棒グラフとか推移とか、テレビを見ていれば嫌でも目にするだろう。

私の場合、過去に漠然と死にたいと思った(と認識した)のが社会人になってから数回あるだけで、学生時代にはあんまりそういうことを思わず過ごしてきた。

(ちなみにその時は病んで自暴自棄になって世の中に絶望して、というよりかは「もう…救ってくれ…楽にしてくれ…頼む極楽浄土…」みたいな精神状態でした。今思うと平和ですね。)

心の中にフラワーカンパニーズを飼っているので楽しいことがあるたびに「生きててよかったー!」って思うわけです。

落ち込んでもしんどくても、「それでも生きてかなきゃいけないから」みたいななんかのキャッチコピーっぽい理由で息をし続けている節はありますけれども。

学生時代、死にたいと思わずとも、漠然と「死」について考えたり、身内が亡くなった時に「死んだらどうなるんだろう」ってぼんやり考えることはあった。でも実際には自ら死ぬための行動には至らない。

人はなぜ自分から死んじゃいけないのか。

それを上手く言語化できずにいたけれど、最近、「それ解釈一致…!」という文章を見つけたので引用したいと思います。

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私の好きな詩人に萩原朔太郎という人がいます。

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萩原朔太郎(1886-1942)
群馬県出身の詩人。日本近代詩の父とも称される。

いらすとやによる肖像画です。そっくりです。ありがたいですね。

私は大学で近現代文学を専攻していましたが、「研究しすぎて好きだったものが嫌いになってしまうのが怖い」という理由で卒論の題材に萩原朔太郎を選びませんでした。好きなものを突き詰めてナンボの研究分野なのに何を言うとんねん。でもホンマなんです。趣味で留めておきたいものもあるのですよ。

そして、好きが高じて、研究しないのに全集を持っています。ヤフオクで落札しました。一生の宝です。一生かけて読みます。

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(この全集を収めるためにあるような引き出しだと思いませんか…?シンデレラフィットにもほどがありますよ…たまたまだけど…)

この全集の第13巻に書簡、いわゆる手紙が載っています。学生の時分、大学の図書館で読み、マジで欲しい、大人になったら買う、と思うほどに興奮したのです。

文豪に興味がある人、作品ももちろんいいけど、余力があればぜひ書簡も読んでみてほしい。人柄が垣間見えるし、たまに出会えるチャーミングなところがいいですよ。朔太郎は誤字を訂正されてるところが多くてかわいいです。

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さて、詩人として名高い朔太郎ですが、詩だけじゃなくてアフォリズムやエッセイも多く残していらっしゃいます。

1931年の雑誌に掲載された、「自殺の恐ろしさ」という文章を引用します。
※引用は「萩原朔太郎全集第五巻」によりました。また、旧字は読みやすいように改めてあります。青空文庫からも読めます。

自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。

死ぬときに身体に受ける物理的な苦痛ではなくて、自死に至る行動をスタートしてからの後悔が自殺の恐ろしいところ、ということなのでしょう。

かつてぼんやり「死」について考えてみたときに、死んでしまったら体の機能はすべて失っているわけだから自分が死んだってことも認識できないのではないか?と考えたことがある。ゆえに、この冒頭文に対して私にはしっくり来るものがあった。

今、高層建築の上の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身体が空中に投げ出された。

シチュエーションが細かい。「さあ!」「飛べ!」っていう自分への言い聞かせがしんどい(私の語彙力がない)。この時点で、死への道を歩むことに対して少しの躊躇もないところに、何とも言えない冷たさを感じる。

だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃(ひら)めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。断じて自分は死にたくない。死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身体は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗(まみ)れた頭蓋骨! 避けられない決定!

一瞬の「悔恨」をここまでスローモーション映像のようにゆっくりと、鮮やかに、そして気持ちが目で見えるように言語化しているのすげえ…というのが私の単純な頭が感じた感想です。

物理的に落ちながら、生活の意義を知る。

心の底にある「死にたくない」に気づいてしまう。

一瞬の中でどれだけ後悔をしても、絶対に後戻りできない。それが「避けられない決定!」という言葉と感嘆符に詰まってて苦しい。

まるで自殺した人の魂に取材して聞いてきたんじゃないかってくらい、私の中ですとんと腑に落ちたのです。

この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事実が、実際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの実験を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽霊である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戦慄する。

この文章はこれで締めくくられている。


私にとっては、「なぜ自殺をしてはいけない(しない)のか」という問いにひとつ答えを見出せる気がする文章だった。

世の中に死にたい人はたくさんいて、死のうとしている人もいて、本当に死んでしまう人は減らない。社会問題になっているし、今私は、死にたい死にたいと言っていたあの子と2学期にちゃんと会えるように祈っている。

本当に死のうとするときの「やっぱりやめとこかな」を丁寧に映し出してくれたこの文章は、誰かに教えたくなるくらいに私の中で強く響いた。

誰かに言われる「死んじゃダメ!」「生きてたら何かいいことあるよ!」より説得力がある気がするんだよなぁ。

明日が来るのが辛い人には、どう響くだろうか。

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