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空白期間の振り返り

※ご注意※ 破局と死別の話です。

密かに定めていた、「月に一回はnoteを更新する」という自分との約束を破った。

破った途端、頭のどこかにいつもあった「記録しよう」「書き残そう」とする気持ちが薄れ、当然行動にも移さなくなり、あっという間に習慣のレールからはずれた。

そして、ふとした時に思い出し、あんなに続けてたのに離れた途端に忘れるやん、何ヶ月あいてんねん、と寂しい気持ちになり、勿体ない気持ちになり、継続することの難しさを知って、私は何事も続けるのが下手くそなのだと自覚する。

昔から、自分で決めて自分の意思で実行することが苦手だった。たぶん何一つできてない。取りたい資格も、できるようになりたいことも、仕事も、何もかも。そういう性分なのだ。手をつけて最後までやり遂げられたことって、果たしていくつあるだろう。

と、そんな私だが、noteの更新については、ただ怠けていて滞ってしまったのではない。抜き差しならない事情ゆえに文章を書けなかった。なんか、ここ数ヶ月、激動やってん。将来笑い話になりそうなことが、まだ完全なる笑い話になっていないだけなのだけどね。

数ヶ月前、学生時代からお付き合いしていたパートナーと別れることになった。20歳の頃から付き合っていたから、約8年くらい。私の過去の記事にも、その人と出かけた出来事やエピソードがいくつか載っているはずだ。

学生時代、そして社会人になってからの数年間、数々の苦楽の場面を一緒に過ごしたり、互いに支え合ったりしてきた。年頃でもあるし、私の心のうちでは、人生の伴侶として添い遂げようという気まで持っていた。

ここにきて破局に至ったのは、ちょっとダメージが大きかった。ここが一人称の世界だということに甘えて言うと、私は私で、結婚適齢期である今結婚したかったし、体力がある若いうちに子どもをもうけたい気持ちもあった。

友人知人が次々に入籍し、子どもを授かり、産んで育てているという報せも見聞きする。比べてどうにかなるものでもないけれど、順調な人を見ると、祝福と同時に心に雲がかかって、私もそっち側にいくはずだったのにという暗い感情になる。こうしている間にも、私は歳を重ね、母が私を産んだ年齢をとっくに過ぎ、父に私が産まれた年齢と並んだ。

社会に取り残されたような気がした。

普通にちゃんとやってる人はもう人生の次のステップへ進んでいるのに、お前はそのバーさえもクリアできない未熟者だ、という烙印を押されたような気がして、誰もそうだとは言っていないのに、人生の歯車が錆びて硬くなって機動しなくなってしまったような感覚。

彼は何度も、「君は僕がいなくても一人でも生きていけるから」と言った。ああ、私のこと何にも分かってないんだなと思った。そういうすれ違いだった。

無理やり切り替えるつもりでマッチングアプリを始めたり、仕事や読書に専念してみようとしたり、気を紛らわすような日々を過ごしていたけれど、なかなか不安感が取れなかった。

面白いものも面白くなくなったり、もらった贈り物や一緒に行った旅行先の思い出の品などが目に入ると気分が落ち込んだりして、元々あまり悪いことは引きずらないタイプなのに、珍しく本当に落ち込んでいることに気づいた。受験に失敗した時より落ち込んでた。

どういう不安感なのかを整理しようとした。私はいつかこの人と結婚して家庭を持って、親を安心させて、普通の幸せを手に入れて暮らしてゆくのだろう、今はそれに至るまでのプロセスだから、時が来るまで気長に待てば良い、という悠長な考えでここ数年は生きていて、そこになぜか私は「安心」を置いていた。このままで大丈夫だと。

その安心材料が忽然と消えてしまって、何を拠り所にすればいいか分からなくなってしまった。命綱をつけていたと思ったら外された。あとは自力で頑張ってねといった感じ。

私の人生の目標が「結婚」と「出産」なのかは断言できないけれど、それを通過したいというのは概ね確かで、でもその予定していた通過点が消失してしまった。運転してて左車線をずっと走ってたらバイパスに乗り損ねた、みたいな。ナビがルート再検索しても道がありません、みたいな。

そんなだから日中もぼんやりする日が増えて、お別れしたあとしばらくは人として使い物にならなかった。無気力で思考力も低下していたから、文章を書く気にもなれなかったし、普段楽しんでいることも楽しめず、出口の見えないトンネルをなんとなく歩いてるだけのような時間を過ごした。

とかいいつつ、時間が解決するだろうと思って生活を続け、一度は無色透明になったものにもう一度彩りを、という気持ちで、いつも通りのことを粛々とやろう、と前向きになってきたところ、また大きい出来事が訪れた。

8月某日、いつもの電車に乗って通勤中、乗換駅のホームで電車を待っていたら、家族から「おばあちゃんがなくなってます」という連絡が入った。

急いで来た道を戻る。最寄り駅からダッシュして汗だくになりながら駆けつけると、倒れた祖母と、為す術なく黙って座っている母と伯父がいた。もう亡くなっていたので救急隊員は既に引き返し、代わりに警察がもうすぐ来るところ、というタイミングだった。

もう死後硬直が始まっていて、足先から変色していた。そして時期が悪かった。真夏、猛暑、効かないエアコン。すでに体液も漏れていて、とてもじゃないが環境が悪い。警察が来るまで何もできない。その間、死体を目の前にして、臭いを感じて、人間って動物なんだなぁ、と訳の分からないことを考えていた。私は生きてるなぁ、と自分の手や指を動かすなどした。

なお、晩年の祖母はもう身体が弱ってヨロヨロで、あまり元気がなく、最近の口癖は「死にたい」だった。痛ましい現場だけど、祖母は自分の希望を叶えられたんだから、楽になって幸せになれたんじゃないかと思った。こんなこと思う孫でごめんね。

私より遅れて妹も到着したけれど、妹は私より繊細なところがあるので、知らせを聞いてからずっと泣きながら移動してきたらしい。祖母に向かって、もっと声をかけてあげたら良かったね、ごめんね、と手を合わせながら泣く妹を見て、私の姉スイッチが入った。ちゃんとしなきゃ、みたいな。

私が見た時は「死体」だったけど、妹が手を合わせた時に「遺体」になったような気がした。

警察に遺体が引き渡され、東京に出張していた父も駆けつけ、一旦、家族が全員集まった。大人になってから身近な人が亡くなる経験は初めてで、私と妹は喪服を買いに行った。

警察によると、祖母の死因は熱中症だったっぽい。私たちが駆けつける前日の夕方にはもう亡くなっていて(衝撃)、でも検死する時にはまだ熱が38℃もあったらしい。熱中症怖いよ。祖母はエアコンをつけない人だった。

エアコンを嫌うお年寄りが身内にいらっしゃる方、説得するの大変だよね。でも空気は冷やした方がいい。寒かったら着込めばいいから、とにかく空気を冷やそう。命は守れるから。

通夜の前に、祖母はきちんと白い着物を着せてもらって、化粧をしてもらって、血色を取り戻した。死体じゃなくなった。さっきまで内臓の奥まで熱かったのに、今度はドライアイスでキンキンに冷やされて、寒暖差で自律神経とかおかしくなっちゃいそうだね。

通夜、葬儀、火葬、お骨上げ、初七日、きちんと執り行って、私は泣くことができた。後述するが、ちょこっと性格に難アリなおばあちゃんだったので、心の底からおばあちゃん大好き!とは言えない不孝な孫なのだけど、それでも、人が命を終えていなくなるところ、その後の過程、儀式を踏んで、きちんと見送れて良かったと思う。

そして私は下痢をした。

父は急に腰が痛くなってカチコチした動きでしか歩けなくなった。めったに体調を崩さない母が高熱を出した。

……そういえば、祖母は長年、リウマチで骨が変形し、足腰や手などを常に痛がっていた。また、内臓系もあまり良くなくて、たびたび下血しては病院に駆け込み、よくお腹が痛い、下痢も多いと嘆いていた。そして亡くなった直接的な原因は熱中症である。

……祟り?

ははは、まさかね。

葬儀関係が一段落して、祟られた者の体調もいくらか回復し、次に役所での手続きのために必要なものを探すことになった。年金手帳や、保険関係、契約しているクレジットカードなどなど。祖母は大事な書類ばかりをまとめて入れている引き出しを作っていたので、遺族一同困らなくて済んだ。

そこでちょっとした事件が起きた。

大事な書類とともに、我々遺族に向けての手紙が出てきたのだ。ルーズリーフ数枚。かなり前のもので、17〜8年前の日付で書かれていた。

そこには、「私が身体を痛めているというのに嫁(=母)は何もしてくれない」とか、「もっとこまめに連絡をくれる孫に育って欲しかった」とか、「夫(=祖父)を恨んでいます」とか、家族に対する不満、罵詈雑言……。

今でいうところの「ヒス構文」が散見され、主張は自己中。本人の名誉のため多くは語りませんが、遺族が読んで気持ちのいいものではありませんでした。

また、夫と同じ墓に入りたくない、地元(四国地方)の父母の元へ埋葬してほしい、葬儀はするな、親戚家族も呼ぶな、戒名もいらない、喉仏だけ納めてくれたらいい、といった、時すでに遅しのご希望も出てきた。

もう葬儀はしちゃったし、数名だけど親戚とお世話になった方は呼んじゃったし、戒名もつけちゃったし、位牌はおじいちゃんとの連名で作り直しちゃったし……。

ますます、おばあちゃん不孝かもしれない。おばあちゃん、向こうでキーキー嫌がってるかもしれん。

ひと通りの儀式が済んだ時は、家族でひとつ大きいことを乗り越えた感というか、ちゃんと悼んでおばあちゃんを思うことができたね、色々あったけど泣けたねってみんなで思ってたのにな。この怪文書のお陰で、出た涙が目に帰ってきそうでした。

これが書かれた頃の祖母は、営んでいた仕事が上手くいかなくなってしまって病んでいたらしいと聞く。そのタイミングで、初孫である私が順調に成長し、家族や祖父母よりも、友達付き合いや塾や習い事などを少しずつ優先し始め、外の世界に踏み出し始めた頃でもあるので、おばあちゃんおばあちゃんと、それまでのペースほど会いにいかなくなった。祖母は祖母で寂しかったのかもしれない。

でも、言っていいことと悪いことがある。言い方ってものもある。困った時の頼り方ってものも、ある。自分の言いたいことを言うためなら人を傷つけていいわけじゃない。ましてや、身近な人に。いい歳しすぎた大人がやっていいことじゃない。もう亡くなった人に、私は静かに怒った。加えて、私はこの人の孫であり、少なからず、DNAを受け継いでいるってことを忘れてはならないと、心の奥底で認識するのだった。

先日、無事に四十九日法要も終えた。住職さんのお話によると、輪廻転生のサイクルにより、この日からまた、世界のどこかで新しい生を受けて、おばあちゃんの命が始まっているのだそうだ。あれだけ死にたがっていたのに、もう生き始めなければいけないんだ。難しい世界だな。

そして私自身も、破局した直後のダメージからはもう脱却していて、こうやって文章を書いたり趣味を楽しんだりすることができている。復活!

今年は大事な人との別れが多かったけど、その分、これからの出会いにも期待して。そしてまた月に一回以上を目標に、でも無理なく、文章を楽しく書けたらいいなって思います。

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