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「スパニッシュダンサー」(第7回私立古賀裕人文学祭参加作品) 万庭苔子 

私立古賀裕人文学祭、通称古賀コンは、テーマに沿って1時間で書き上げたものを出す、というコンテスト。詳細はこちら。

第7回目となる今回のテーマは、「 ダンスをご覧ください 」です。
わたくしの古賀コンチャレンジはこれで三回目、さてさてどうなることやら。ここから1時間のタイマー、入ります!


 スパニッシュダンサー
                              万庭苔子

 音響装置の電源を落としたとたん、店のなかの気圧が一気に下がる。空気が緩んで圧迫感が消えふっと身体が楽になる。
 静かになった店はいつも大学の生物飼育室を思い出させる。
 室内は暗幕で光を遮断してあって、いくつもの水槽が何段にも重ねて置いてあり、図書館の棚みたいに並んでいた。水槽のなかには、センチュウ、クラゲ、ギボシムシの仲間など、あらゆる種類の水中無脊椎動物が飼われていた。もちろん、ヒラムシやウミウシの仲間もいくつかいた。
 あのころぼくは時々その部屋に入り込んでは長い時間を過ごしていた。どういうわけか子どものころから、ヒラムシやウミウシの仲間が好きだったのだ。あのエキセントリックなデザインや、サイケデリックな色彩に無性に惹きつけられていた。
 クラゲやナメクジウオの仲間にだって、驚くほど美しいものがたくさんいる。暗く静かな室内のなか、水槽の照明に浮かび上がる美しい生き物たちを眺めていると時間はあっという間に溶けてなくなった。聞こえてくるのは空気を送るポンプの音だけ、ぽこぽこという音が心地よかった。
 あのころ学校のなかでぼくが身をおける場所は、そこしかなかったのかもしれない。
 ときどき生物飼育室には先客がいた。クラゲをかぶったようなおかっぱ頭をぴったりと水槽のガラスに貼り付けるようにして、じぃっと水の中に見入っている。ぼくが入っていっても、まるで水槽の一部になってしまったかのように静かに身動きひとつしないで、いつまでもそうしている。
 みんなからはこっそり「テグリくん」と呼ばれているやつだった。背が低く、こどもみたいにぽっちゃり顔で、ニシキテグリみたいにいつも口を尖らせているのでそんなあだ名がついた。
 テグリくんがいるときには、ぼくはできるだけ邪魔にならないように、彼の視界に入らない場所でひっそりと存在感を消して過ごした。あまりに静かなので、ぼくのほうもいつのまにかテグリくんの存在を忘れてしまうほどだった。
 その日、テグリくんはミノウミウシの水槽に貼りついていた。赤っぽい照明の下でフラメンコダンサーのように踊っているミノウミウシを、いつものように身じろぎもせずただ食い入るようにみつめている。ぼくもいつものように気配を消して、テグリくんがいるところとは別の列でアメフラシの交尾を眺めていた。大きなアメフラシが何匹も繋がって、ドーナツ状になっている。
「らくだの耳」
 雑音みたいな音がどこかから聞こえてぼくは周りを見回した。空耳か。
「らくだの耳だ」
 やはり人の声だ。ということはこれがテグリくんの声だろうか。今この部屋にはぼくとテグリくんしかいない。
「らくだの耳なんだ、ぼくは」
 声はもう一度言った。
 その言葉の意味よりも、テグリくんってこういう声してたんだ、というのにぼくは気を取られていた。
「誰も知らない」
「描いてみろよ、描けないだろ」
 ぼくがいることにまったく気づいていないのだろう、テグリくんのくぐもった声が水槽のガラスに反射して断続的に響いてくる。
「だから、らくだの耳……どんな形してる?」
 生物飼育室の空調はいつも一定に保たれているはずなのに、急に寒さを覚えた。とにかく部屋を出ようと、可能な限り空気すら動かさないようにそっとぼくは水槽の前を離れる。テグリくんのいる列の前にさしかかったとき、小さく叫ぶような声が聞こえた。
「らくだの耳だ、ぼくは」
 足の甲に釘を打ち込まれたように動けなくなった。おそるおそる目だけテグリくんのほうに向ける。
 赤い光がテグリくんの顔を照らしている。目も血走っているかのように真っ赤に染まって見えた。
 水槽のなかではあいかわらずミノウミウシがたっぷりとした赤黒のドレスの裾をひらひらとゆらめかしてフラメンコを踊っていた。  (おしまい)




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