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人間の存在について

 ポストモダンは人類救済の壮大な約束ー宗教から近代科学を経て、左右両翼にわたる全体主義のあまりに急進的な政治理念に至るまでーのすべてが反故になってしまった後で、徹底的にはじめからやり直す試みでした。ポストモダンは、伝統からの断絶を徹底しようとしました。わたしたちのだれもが追及すべきなんらかの意味がこの人生にはあるのだという幻想から、わたしたちを解放しようとしたのでした。ところが、そのような幻想からわたしたちから解放するためにポストモダンがしたのは実際には新しい幻想を生み出すことにすぎませんでした。とりわけ、わたしたちは個々の自らの幻想にいわば嵌まり込んでしまっているのだという幻想を生み出しました。前史時代からずっと人類の巨大な集団幻覚の虜となっているのだ、と信じ込ませた。(ポストモダン)そしてそれこそが形而上学であり、その巨大な集団幻覚だとされました。
 形而上学は、この世界全体についての理論を展開しようとする試みであると定義できます。形而上学が説明すべきことは、現実に世界がどのように存在しているのかであって、私たちにとって世界がどのように見えるか、わたしたちにたいして世界がどのように現れるのかではありません。「世界」という言葉を用いるさい、この言葉によって考えられているのは、現実に成立してる事柄の総体、言い換えれば、この現実それ自体です。「世界=現実に成立していることがらの総体」という等式から、わたしたち人間が抹消されているということです。
わたしたちにたいして現れている限りでの事物と、現実に存在している事物それ自体との間に区別があることが暗に想定されているからです。となると、現実に事物がどのように存在しているかを確かめるには、いわば認識のプロセスに人間が加えた作為の一切を取り除かなければならないことになります。これにたいしてポストモダンはわたしたちに対して現れている限りでの事物だけが存在するのだと異議を申し立てました。現れの背後には、それ以上のもの、すなわち世界ないし現実そのものなど存在しない、というわけです。

構築主義とは、およそ事実それ自体など存在しない。むしろ私たちが、私たち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、一切の事実を構築しているのだ、と。このような思想の伝統の最も重要な証言者がイマヌエル・カントです。カントが主張したのは、それ自体として存在しているような世界は、わたしたちには認識できない、ということでした。わたしたちが何を認識するのであれ、およそ認識されるものはなんらかの仕方で人間の作為を加えられているほかない、というわけです。
 ゲーテ『色彩論』色彩の実存を疑う考え方からすれば、色彩とは、わたしたちの視覚器官に届いた光の特定の波長にすぎません。
まさにこのようなテーゼが形而上学にほかなりません。世界それ自体が、わたしたちにたいして現れているのとは違った存在だということがからです。
もっともカントは一層徹底的でした。時間・空間における粒子という存在でさえ、わたしたちにたいして世界それ自体が現れるさいの一つの様式にすぎないということでした。わたしたちが認識するすべてのものは、わたしたちによって作りなされているものであって、だからこそそれを認識できるのだ。
ハインリッヒ・フォン・クライストは婚約者に宛てた有名な手紙の中でカント的な構築主義を次のように具象的に表現しています。

「すべての人間が裸眼でなく緑色の眼鏡をかけているとしたら、人間は、こうして自身を見ている対象それ自体が緑色であると判断するしかないでしょうし、自身の眼が事物を存在しているとおりの姿で見せてくれているか、それとも、事物それ自体でなく自身の眼に由来するものを当の事物に付け加えてはいないか、いったいどちらなのかを決められなくなることでしょう。知性についても同じことがです。わたしたちは、真理と呼んでいるものが本当の真理なのか、それともわたしたちにそう見えているにすぎないのか、どちらなのかを決めることができません。」

構築主義はカントの「緑色の眼鏡」を信じているわけです。これに加えてポストモダンは、わたしたちのかけている眼鏡は一つに限らず、とても数多くあるのだとしました。
いっさいはさまざまな幻想を持て余す複雑な戯れにすぎず、その中でわたしたちは世界内での位置を割り当てあっているのだ。ポストモダンにとって人間の存在とは一本の長い映画のようなものだ。
しかし、人間の存在と認識は集団幻想のようなものではありません。むしろ新しい実在論の出発点となるのはそれ自体として存在しているような世界をわたしたちは認識しているのだということです。


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