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ジーズアカデミーBootCampフェーズ終了「考えること。続けること。そして楽しむこと。」

最初の3ヶ月は大事だ。
世間に溢れかえったそのフレーズも、いざ自分が新しい環境に身を置くと、骨身に染みることになる。

習慣は福利で効いてくる。
習慣とは日々のルーティンと、そのなかで刷り込まれるマインドのあり方である。

ジーズアカデミーにやって来て約3ヶ月。
BootCampフェーズ・チーム開発というイベントも終了したタイミングで、大切にしたいと感じた習慣や考え方を振り返ってみたいと思う。

考えること。続けること。そして楽しむこと。についてだ。

さて、ジーズアカデミーのLABコースは大きく3つのパートで構成されている。

・BootCampフェーズ:大学でいえば必修科目
・Deployフェーズ:大学でいえば専門科目
・Mentorフェーズ:大学でいえば卒論・修論。卒業制作。

そして先週、この最初の3ヶ月のBootCampフェーズが終了したわけである。

BootCampフェーズの最後はチーム開発。
それまでは、個人が講義を受けては、制作物を提出するというサイクルで回っていたのだが、
それをチームでやりましょう、なんならチーム戦にして戦いましょう!
さらに、なんならチーム順位も1位から最下位までぜんぶ発表しましょう、というなんとも鬼畜な前半戦のラストスパート・セレモニーである。

結果から振り返ってみれば、優勝チームと0.05ポイント差での2位。
嬉しい、悲しい、悔しいといった話は多々あるものの、とても「考えること」について学ばせられた。

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考えること:「つくりたいもの」を北極星に学習を有限化する

学習に終わりはない。
ぜんぶ学んでからつくりましょうでは、なにひとつ、うまれやしない。
だから出発点はいつも「なにをつくりたいか」だ。

そして「つくりたいなにか」から「どうすればつくれるか」を学習しながら探索する。

目的のために、なにかの技術を学んだ結果、「できないということが分かる」ということもある。
(技術的に不可能。もしくは、現時点での納期では学習コストが高すぎる)
そうなると「この技術では不可能」→「別の技術の検証」ということになる。

学習領域なんて無限だ。
だからこそ、つくりたいもののために、その範囲を有限化して学習することが大事だ。それには、まず「なにをつくりたいか」「どうすればつくれるか」を考えることだ。

考えること:「わからない」「できない」を細分化する。思考停止しない

大丈夫、たいていのことはなんとかなる。
チーム開発の1週間でFigmaやらHerokuやらVue.jsやら、触ったことのないものを触りまくった。

さらに、BootCampフェーズが終わってからのこの1週間でもDockerやらGitやらAWSやら、未知のてんこ盛りである。

大事なことはつくることだ。Deployすることだ。
「知らない」「わからない」「できない」で終わらずに、まずちょっと食べてみる。
で、そこからなにがわからないか考える。
まず一口かじってみることだ(Udemy見てみたり、Qiitaや入門書を読み漁ったり)。

えっ?Heroku触ったことない、無理ー。じゃ、何も生まれやしない。
(チーム開発では、まさかの〆切直前に、想定していた方法ではDeployできないことがわかって、みんなで必死にHerokuしたw)

まず一口食べてみることだ。苦手というのは、単に触れたことがないだけ、という方が多い。
"It's a piece of cake"

続けること:センスは磨くもの、才能は開花させるもの

これは感情論のような戦略・戦術の話である。

初期値(いまの自分の実力)はどうしようもない。いまここから、始めるしかない。それは仕方ない。
ただ、未来はコントロールできる。
しかし、日々の積み重ねを続けないことには、未来は変わらない。

どう続けるか、どうすれば続くのか。それが大事である。

入学して3ヶ月もしてくると、「あの人はセンスあるよなー」とか思えてくる。
おなじように「ヨーイドン!」ではじまったはずなのに、現在地点が違う。
どうしたってカンの良い人はいる。ここでは書けるやつが偉い。

ただ、それが自分自身が努力しないことの言い訳にはならない。

どんな成熟や熟達のプロセスにもプラトーというものはある。
成長の曲線だって人それぞれだ。学び方にも個性がある。
自分の個性や実力を呪っても仕方ない。大事なことは、目の前の1日をどう過ごすかだ。

こんなことを書いていたら及川君のことを思い出した(無論、ハイキュー!!の及川徹である)。

天才・影山飛雄を目の前に、かつての恩師?からの言葉を思い出す。あの場面だ。
↓詳しくはアニメ「ハイキュー!!」のリンクから↓

自分より優れた何かを持っている人間は、生まれた時点で自分とは違っている。それを覆すことなど、どんな努力、工夫、仲間をもってしても不可能だ。

そう嘆くのは、全ての正しい努力をしてからで遅くない。
自分は天才とは違うからと嘆き、諦めることより、自分の力はこんなものではないと信じて、ひたすらに真っ直ぐに道をすすんでいくことは辛く苦しい道であるかもしれないけれど。
才能の開花のチャンスを掴むのは今日かも知れない。
もしくは明日か、明後日か、来年か、30歳になってからかもな。体格ばかりはなんともいえないけど、ないと思ってたら一生ないんだ。

そうつぶやいて、あのコート外から超ロングセットアップを決めるシーン。

まだ3ヶ月だ。才能やセンスなんて話は、すべての正しい努力をした先の話だ。

才能は開花させるもの。センスは磨くもの。

それらは正しい努力と、そのプロセスの中での自己理解と創意工夫の中にある。折れなければ、続けていれば、勝てないかもしれないが、負けることもない。


楽しむこと:無敵とはなにか

続けるといったって、それは苦しさの対象なのだろうか。
もちろん、快・不快だけで物事を判断しようと思ってるわけじゃない。
ただ、やっぱり根本的なところで楽しくなければ、続かない。

エーリッヒ・フロムだって、技術の習練を引き合いに出して、こう述べている。

技術の習練には規律が必要である。規律正しくやらなければ、楽しい趣味にはなりうるかもしれないが、そんなやり方では絶対にその技術を習得することはできない。

・・・

しかし重要なのは、外から押しつけられた規則や何かのように規律の習練を積むのではなく、規律が自分自身の意志の表現となり、楽しいと感じられ、ある種の行動にすこしずつ慣れてゆき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようになることだ。

西洋における規律の概念の不幸な側面の一つは、規律の習慣が何かつらいことのように思われ、しかもつらいことだけが「良い」と考えられていることだ。

東洋では昔から、人間にとって肉体的にも精神的にも良いことは、最初は多少の抵抗を克服しなければならないとしても、快いものでなければならない、と考えられてきた。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』


ただ書くだけだったプログラミングも複雑になってきた。
開発環境、ネットワーク、開発フロー、UI/UX。プログラミングは、たかが3ヶ月でたいそう小難しくになった。

でも、このようにも思う。
3ヶ月前「なにかをつくる」ということには、なんのリアリティも、手触り感もなかった。
一方、いまでは巨大な無知とタスクの山がそびえ立っている。

これは前進ではないか。

空想だったものが、手に取れるなにかに変わっている。
それは、成長なんじゃないだろうか。

たしかに知らないことは多い。
ただ、それをどうすれば知ることができるのか。どうすればできるようになるのか。どうすればつくれるのか。
そんな道筋はおぼろげながら見えるようになってきている。

さぁ、やるべきことは沢山ある。知らなくちゃいけないものも山積みだ。
ただ、これらすべては「つくりたいものをつくるため」の道だ。

そして、その道を歩むことは、きっと苦しいだけじゃない。

BootCampフェーズの終盤。
いつも勇気をもらっていてた日常系の名作から引用して終わりたいと思う。

「あいつは何でも楽しめるからな よつばは 無敵だ」

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