ころがるえんぴつ/某コピーライターの独立とかの話_05
第5話/2007年4月中旬:笑われて、笑う。
「すぐに過去の仕事をまとめて、明日、原宿のN事務所に来い」
犬養を怒鳴ってから3日後。あの勢いは、とうに消え失せ、K氏の命令口調に逆らう力はなかった。
しかし、正直、今度ばかりは本当に、かなり、すごく嫌だった。気が重い。いや、もう、あれだ。全身全霊が重い。K氏の言う「原宿のN事務所」とは、K氏が仕事場として間借りしているウェブデザイン事務所のことだ。
何でも、そこの社長であるNさんは、僕の一つ年上だが、もう既にキャリア10年を積む業界のちょっとした有名人。5人のスタッフを抱え、有名企業のサイト開発を数多く手がけているという。そんなパワフルな人物に会って、仕事の話をしろというのだ。あのオッサンは。今、自分が最も接触したくない、パワーのあるタイプの人間ではないか。
僕にはパワーがなかった。清々しいほどになかった。それこそ、重力とか、空気の流れとか、傾斜とか、そういう自分のからだの外にある力に身を任せ、かろうじて転がって歩いているような、そんなポンコツ加減である。ただ、ポンコツなりの良さもあった。それは「逆らう力」がなかったことだ。僕はK氏の言いなりになって、大人しく過去の仕事をプリントアウトし、きっちりとファイリングして原宿へと向かった。
これは一体どんな場なのだろうか。面接でもなく、売り込みでもなく、自己顕示欲も持たないままに、ただ、すでに終わったことにした己の過去を晒す。後にも先にも経験したことのない不思議な時間だった。Nさんはサーバーサイドのプロフェッショナルだったが、広告企画にも相当深く食い込んでおり、人脈も相当に広いようだった。私が持ち込んだファイルをパラパラめくりながら、時折説明を求めてくる。その都度、私はぼそぼそと答え、「はやくかえりてえなあ」とだけ念じる。今考えると本当にひどい話だ。ひとしきりファイルを見たNさんは開口一番、こう切り出した。
「で、どんな仕事がしたいの?」
頭がくらっとした。逃げたい。マジで逃げ出したい。私は心の底からK氏を憎んだ。あのオッサンは……ああ、Nさんの後ろの席でニヤニヤしながらディスプレに向かって仕事をしている。いや、完全に聞き耳を立てている。仕事をしているフリに決まっている。
でもまあ、常識的に考えればそういうことになるのは当然だ。一社の社長のスケジュールをおさえていただいて、単なる自己紹介なんてことはない。まともな大人なら、まともな社会人なら考えなくたってわかるよね。そう。でも、僕、無職なんだ!
と、ひとり、インナーワールドに逃亡を図りつつあった僕をふん捕まえるように、Nさんはさらに続けた。
「●●●●とか、●●●●とかなら紹介できるし、やる気があるならウチの地下にある◎◎◎◎にすぐデスクを用意できるよ?」
私は心底困った。それらの伏せ字はとんでもなくメジャーな広告制作会社だ。普通に転職しようとしても、逆立ちしたって入れっこないし、入ったところで何か出来る気がしない。正直、どう答えていいかわからなかった。だって、自分の意志なんて微塵もないのだから。それでも、「何か」を言わないとおかしな事になるにちがいない。中身が食べ尽くされた寸胴鍋の底をさらうように、空っぽな自分の中身をまさぐり、手のひらにつかんだ言葉を何も考えずにはなった。
「……嫌いなんですよ。ああいいうメジャーな広告とか、クリエイティブな感じとか」
この発言は、その場で死ねばいいくらい本当に最低だったと思う。でも、このときに限って言えば、最良だったのかも知れない。Nさんはとても嬉しそうに爆笑した。ひとしきり笑うと、さっきまでのパワフルやり手社長とはちがった表情でこう言った。
「なんかわからないけど、わかりました。森田さん、面白いからたぶん大丈夫ですよ」
この言葉は、この笑いは、“その後の森田くん”を変える本当にエポックなものだった。ただ、重力に任せて沈んでいく僕に、浮力を与えてくれた。
人を笑わせたのは(笑われたんだろうけど)随分久しぶりだと思った。ただ、それだけが嬉しくて、Nさんに深くお礼をして、麻布の穴蔵へと帰った。後悔は全然なかった。羞恥心は、少しは持った方がよかったよね。あの日の自分。とは、少し思うけど。
つづく