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医師と患者と

病棟での実習が始まっておおよそ一カ月が経った。

今まで机に向かってやるような勉強しかしてこなかったが、実習が始まると、机上の論理がリアルに落とし込まれているさまを、まざまざと見せつけられるので、非常に密度の濃い一カ月を過ごしたものだと、自分で感心している。

患者さんと接する中で、思ったことがある。それを「今」書き連ねることが大事だと思ったので、この場を借りて、綴らせていただこうと思う。


本題に入る前に、なぜ「今」書き連ねることが大事だと思ったかについて説明する。

実習が始まったことによって、今までは医療を提供される側として行っていた病院という場所に、今度は医療を提供する側として行くこととなった。

医学生としてどうなんだという意見もあるかもしれないが、実習が始まるまでは、医療従事者側の気持ちなどつゆ知らず、患者側の気持ちしかわからなかったといっても過言ではない。私自身が患者として、医療に触れることはあっても、その逆はなかったからだ。
しかし、実習が始まったと同時に、医療従事者側の気持ちもわかるようになってきた。

実際に患者さんを相手にするのは非常に勉強になる。その一方で、医者はこんな時、こんなこと考えているのかと、驚きの連続でもある。

つまり私は今、患者さんの振る舞いも、医者の振る舞いも、どちらも新鮮に感じるのである。

これから実習を積み重ねて、医者になって、そんなプロセスを経ていくにつれて、常識になるであろうことが、今はまだ常識になっていない。そんな何もかもが新鮮に感じるような今の状態というのは、ひょっとしたら価値のある時期なのかもしれない。
これを読んでいるあなたも、「期間限定」という言葉にひかれるであろう。それと同じである。私は今、「期間限定」で医者と患者の両方の性質を持つ人間として、この世に君臨しているのである。

医者の常識に新鮮さを感じることのできる今のうちに、フラットな目線を持つ今のうちに、医者と患者のハイブリッド的な存在である今のうちに、感じたことというのを残しておきたいと思うのである。


人間、自分の身体のことには敏感になるものである。

少し異変があっただけでも、重病の可能性が頭にチラつくのは当然のことだ。こんな情報社会ではなおさらだろう。

その弊害、、といったら大げさな気もするが、率直に言うと、「来たってどうしようもない患者さん」が割と来るのである。科にもよるだろうが。

私が外来の見学で見たのは、大まかに言うとこんな患者さんである。

首が硬いという女性。動かすと痛い気もする。
血液検査、画像検査等したが異常なし。
治療せずに3年経過したが症状は変わらず。

この症例を見て、あなたがもし医者だったとしたら、どう思うだろうか?


結論から言うと、医者からしたらどうしようもない。手の施しようがない。

医者は神ではない。マジシャンでもない。そんなことは誰もがわかっているはずなのに、いざ自分が患者という立場になった途端、「もう病院に来たから治してもらえる。安心だ。」と言わんばかりの表情で医者のもとに立ちはだかるのである。

結局この方は、また診察してほしいということで次回の予約をして、不満そうな顔をして帰っていった。これを3年間繰り返しているらしい。


原因がわからない以上、闇雲に治療はできない。どんな治療にも、大小あるが副作用がつきまとうからだ。
それに、お金だってかかる。患者さんが診療費を自身で全額負担しているのならかまわないが、実際は、診療費のほとんどは、これを読んでいるあなたが収めた税金から賄われているのだ。

あなたからしたら見ず知らずの、治療を施されるでもない、ましてや薬を処方されるでもないような、重症からは程遠い患者さんが、
「ちょっと不安だから」
「症状があるような気がするから」
というような理由で、国民の血税を消費しているこの現状を、あなたはどう思うだろうか。

なにかしてもらわないと安心出来ず、ゴネ続ける患者さんもいるのだろう。そんな時は渋々薬を処方することもあるのだろう。すると、患者さんとしては満足そうに帰って行くのだが、こちらとしてはなにも解決していない。むしろ副作用が怖いし、医療費を無駄遣いしたような気分にさえなるのである。


その患者さんの外来を担当した先生を斜め後ろで見ていたが、その先生の姿を見ていると、

「口が裂けても、来るななどとは言えない。できることなら、治してあげたい。」

という感情と、

「ただ、来てもなにもしてあげられないよ。あなたにとっても、私にとっても、時間の無駄だよ。」

という感情とで、哀しみを帯びた葛藤を、押し殺しているように見えたのである。



ゴソノギ__国立医学生の日常

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