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【仮面ライダーオーズ10th】愛読書を用いた考察【復活のコアメダル】

これは二ヶ月以上、復活のコアメダルという映画に苦しめられた人間があの映画を解読または分析をしたいという欲望から生まれた駄文である。
エンターテイメントを考える上で自身が愛読している本から一部引用し、その上で自分の意見等もまとめたいと思う。
文体が安定しないため論文調でまとめる。

●はじめに

今回、私の愛読である電子書籍版『荒木飛呂彦先生の漫画術』を主な参考に復コアの作り込みに感じた違和感を突き詰めていきたいと思う。
あくまでいうがエンタメに正解はなく、それについては漫画術の中でも語られているところである。
だが、あらゆるエンタメには最低限の「型」がある。
歌舞伎とミュージカルが全く違うように、日本舞踊とブレイクダンスが全く違うように。
あらゆるエンタメは基礎が違ければ、着地点もまた異なる。
必ずそこにあるのは、エンタメの誕生から今日までの歴史である。どの国で、どの時代に生まれて、誰が広めて誰が今日まで受け継いだのか。
復コアを観て真っ先に思ったことは「役者と美術以外が非常に雑」ということだった。
なぜ雑だと思ってしまったのか、それは全て設定の作り込みの浅さが原因であると考える。
ならば、どこを補強すれば厚みを持たせることができたのかを真剣に考えてみたい。
これはあくまで個人の意見に過ぎないことも併せて読んでいただければ幸いである。

またここで引用する作品名の大体を表記しておく。漏れもあるが目を瞑って流して頂ければと思う。
・暴太郎戦隊ドンブラザーズ
・仮面ライダーオーズワンダフル将軍と21のコアメダル
・ショーシャンクの空に
・ジョーカー
・二十世紀少年
・旭山動物園 ペンギンが空を飛ぶ
・マリと子犬の物語

●古代オーズについて

復活のコアメダルで前評判から気になっていた古代オーズ。デザイン的にも渋くて、映画を観る前はどんなドラマを産んでもらえるのだろうかと大いに期待をした。何より古代オーズは鴻上光生の先祖でアンクの元相棒である。壮大なドラマが生まれないはずがない。期待とワクワクがいっぱいだったのにも関わらず、ただの噛ませ犬になってしまった。噛ませ犬にするには勿体無い存在だからこそ、どのような会議でキャラクターの設定が考えられたのか。
漫画術の第三章「キャラクターの作り方」を参考に「古代オーズ」について考えたい。

①何をしたい人なのか(p82〜84)
本項では「人がなぜ行動するのか」を描くのは重要であるとされている。
それでは、古代オーズは復活をして何を成し遂げたかったのだろうか。
テレビ本編では確か、はじめは賢王であったが力という欲望に取り憑かれた結果全部のメダルを欲したという流れだったと思う。
だが、私が知りたいのはそこではない。
もともと全ての力を得て「何をしたかったのか」だ。
映司が力を欲していたように見えて、ただ世界中のどこまでも届く手が欲しいと願ったように。
おそらく欲望に取り憑かれる前の古代オーズにも芯となる欲望があったはずである。
事実、「将軍と21のコアメダル」に登場する錬金術師のガラは古代オーズによって封印された存在だ。
なぜ封印したのか。それは、ガラが欲望で世界を終わらせようとしていることに気づきその考えを古代オーズが拒んだからであろう。
そんな古代オーズが復活のコアメダルで行ったことを思い出してみたい。

人類の大半を死滅させた。

人類の死滅とはすなわち「治める国がない」ということである。世界を手に入れたいとは人を支配したいという欲だ。
基本、支配欲がある人間であるならば見せしめで一国を滅ぼすくらいはあるだろう。その標的に日本が選ばれても特撮大国ならば致し方ないと思う。
復コアに出てくる古代オーズはその加減ができていない。誰もいない世界で誰もいない国の玉座に収まろうとしているということである。
過去の設定との乖離がないと言うならばその描写を盛り込むべきだったのではないだろうか。最終回の引用シーンを全部削ればいけたと思われる。
復活させたグリードたちですら取り込むあたりただ世界を終わらせようという気概しか感じない。
ならば、古代オーズは人類を滅亡させた先でやりたいことがあったのか、そうでないのか最低限知りたかったところである。

②悪のキャラクターの魅力(p93〜95)
荒木先生の産んだディオは「人が持つ醜い感情の解放」というところに焦点が合っており当然のことながらディオは悪としての矜持がある。
悪だからなんでもやるわけではなく、悪だからこそあえてやらないこともあると示す。それがディオの器の大きさに繋がっている。
ここで古代オーズを思い出した時、大器と呼べるところはあっただろうか。
残念ながら私の主観では、ただ力に固執してるだけの賑やかしというくらいにしか感じることはできなかった。
力だけに固執し、それを誇示するというのはチンピラがすることである。
特に古代オーズ…王のすることではない。
また、荒木先生は「主人公と敵役は対比させる」ことを薦めている。
オーズにおける主人公と敵の対比とは即ち、テレビ本編の火野映司と真木清人と言えるだろう。
プトティラのメダルを宿した二人が、自分の叶えたい明日がありその欲望をぶつけ合わせる。火野映司は一人ではその欲望を叶えられないと理解していたからこそ、アンクの手を取り最終戦に挑んでいるのである。
復活のコアメダルにおけるアンクがオーズに変身することはそれに該当していたであろうか?
古代オーズは復活のコアメダルのオーズと何を対比させていて、何の信念を競い合わせていたのだろうか。
テレビ本編の真木清人は世界の良き終焉に至ることに対して真摯に突き進んでいる。
将軍と21のコアメダルでは真木は自分の欲望を阻害すると判断したガラを排除するため、映司に協力する姿も見られているのである。
これらからのことから復活のコアメダルでは古代オーズは何がしたかったのかさっぱりわからないということだけが、わかるのである。

●ゴーダについて

まず私としては、火野映司役の渡部秀さんの怪演とも言えるゴーダの演技そのものには不満はない。火野映司という役の出番の尺を取られたことと、渡部秀さんの声が聞きたいのに声優さんにアフレコで声を潰されて活躍の尺を更に奪われたことには思うところは大いにあるが、俳優さんと声優さんの演技力にはなんの不満もないのである。
ただそれは演技力というだけの話である。
では、古代オーズと同様にゴーダとはなんだったのかを考えていきたい。

①何をしたい人なのか(p82〜84)
人工的に生まれたばかりのゴーダは映司の記憶を全て有している。コンボのあれをやりたいこれをやりたいというのは、生まれたばかりの子供らしい部分ではあった。
子供であるならゴーダというキャラクターに大きな比重を置かれているものは好奇心だ。
だが、問題はゴーダが有してしまったのは火野映司の記憶である。
火野映司の記憶は紛争地域の記憶も色濃く残っている。生まれたばかりの赤ちゃんゴーダがその記憶に触れてSAN値直葬一時的発狂1D10の6を引いてもなんらおかしくはない。生きている方が辛い記憶というものがこの世にはあるのである。そして映司はそれを抱えてなお生きようとする人間であった。
映司の記憶に触れていて、前述の行動を取ったとしても他害感情が湧くかと聞かれたら首を傾げるのである。色んな人の盾になり傷つき痛みを耐えてきた映司の記憶である。
ゴーダが生まれたばかりの赤子ならばむしろ暴力の恐ろしさしか感じないのではなかろうか。痛みとはもともと学習機能であり、同一の行動をしないように回避行動を取るために学ぶ人間の本能だ。
ゴーダは生きる意味を探している求道僧と呼ぶには敬虔さは足りず、力を手に入れてはしゃぐだけの赤子のまま終焉を終えた。
やはり、何をしたかったのか本気でさっぱりわからなかったのである。

②悪のキャラクターの魅力(p93〜95)
演出的に「ゴーダ」という役割にやらされたのは「裏切り」なのであるが、問題がそこに至るまでの積み重ねである。
映司が死んでいることをバラして乗っ取ったと言うところから始まり、古代オーズが弱ったところで裏切る。
一度味方に見せかけて裏切る。
実はこの展開、既にメガマのポセイドンがやっている展開である。
意外性のいの字も感じられないありきたりな展開であったと言えるだろう。
ここに関して、また古代オーズに関して、小説を読めばわかるとか、前日譚を観ればわかるというのは詭弁であると考える。
映画ならば映画その単品で語らなければ意味がない。ファンタスティックビーストでこの辺りでうまいと感じた部分が、肖像画、手配書、新聞である。観客に画像をさっと見せて何が起きているのか言葉で語らずとも映像でこちらに理解させてくれているのだ。
映画のジョーカーでもこの点でうまいと思った部分がある。アーサーの母のカルテシーンだ。見る人が見ればわかるがあのカルテはかなり精巧なカルテなのである。
また、ゴーダが一定層の人気を得られたのはあくまで渡部秀さんの怪演が功を奏しただけであり、メガマのポセイドンのような容姿だったら結果は変わっていたのではないかと考える。
なおジョーカーの映画は史上最凶のヴィラン誕生の前日譚であるため精神的に疲れる映画であることは明記しておく。近日ジョーカー2の製作が発表されたが、是非ともホアキン氏のメンタルケアにスタッフの方々が尽力してくださることを祈らんばかりである。

●対比の演出


ここは引用とは関係のない考察である。
対比という描写は敵と味方に止まらない。
「ショーシャンクの空に」がこれに該当するであろう。ショーシャンクの空にでは、仮釈放のブルックスが塀の外の世界に打ちのめされ自害してしまうシーンがある。このシーンは後半におけるレッドとの対比である。
仮釈放をされたレッドは仮釈放をされた時のブルックスと同じような生活をしてブルックスと同じような結末になるかと見せかけて別の選択肢を見つける。
これは前半の絶望を先に見せることで、後半の希望を際立たせる演出だ。
復活のコアメダルでは、この対比の真逆をしてしまったのである。
前半に希望を見せて、後半に絶望を見せる。
これを「希望の物語」と公式から言われても押し付けがましいと感じてしまうのはこのような部分だからであると考える。
例えるならば「良いニュースと悪いニュースどっちを先に聞きたい?」という質問のようなものだ。先に良いニュースを聞いてその後に悪いニュースを聞くと非常に気分は良くない。だが逆であれば、気持ちよく終われるのである。
新人指導にも同様のことが言えるが叱った後に、新人の良い点を誉めるというのは効果的な指導としても知られている。
とにかく、良いニュースの後に悪いニュースというのは気分が滅入るのでオススメしない演出であると私は考える。
無論この描写が功を奏す作品がある。
それがホラーである。
平和な描写から絶望に叩き落とされる感情のジェットコースター。復活のコアメダルをホラー作品として出されていたならば、私は拍手喝采を送っていたことであろう。

●映司の助けた幼女について


今回、唯一の生身のゲストと言っても過言ではない幼女について考えたいと思う。
これに関しては漫画術の引用というよりも、自分が子供を相手に経験したことから幼女がいかにすごいかという点を書きたい。
なぜなら私の知ってる子供たちは、怖い思いをしたらちょっとぐずるなんてものではないからだ。
今回は古代オーズをなまはげに例えたいと思う。経験上、なまはげをみた小さい子供は大体大泣きをする。
表情を涙や鼻水でくしゃくしゃにして、顔色を真っ赤にして、ママかパパ(大体ママ)を右往左往しながら探すのだ。
抱っこをしてあやしても、人見知りの強い子ならママの抱っこじゃなきゃ嫌アピールでえびぞりになってたりする。
従って、ちょっとぐずるだけでほとんど泣かない幼女はとてもすごい子であり、メンタルが鋼というか肝が据わっている。
終盤の映司の姿を見ても特に反応がないところを見てもすごい胆力である。

将来有望の超大物だ。

幼女には是非鋼のメンタルで人生を元気に邁進してほしい。
だが、それは幼女だけの話である。

撮影した人たちには文句しかない。

先にいうが撮影でリアルのギャン泣きシーンを撮ったらスタッフが子供に何かしたのではと疑われかねないので、特撮に子供のギャン泣きシーンがなくて当然である。
だが、撮影時期が暑い時期だったからとかそういう話は置いておくにしても、見るからに怪我をしやすそうな半袖とスカートという軽装というのは災害現場にはそぐわない服装である。映像的には、真に迫るという面で全然迫れていないのだ。
日本の災害現場と呼んでもいい、荒廃した世界で軽装でやや汚れただけの少女というのは異様だ。子供の身長からも分かる通り、子供は大人以上に簡単に瓦礫で怪我をしやすい。世界が崩壊した瓦礫の世界における砂塵とは鳥取砂丘のような綺麗な砂ではない。ヘドロが乾いた砂だ。有毒物質や汚水が混じっている可能性があるため一度その砂塵が目に入れば失明する危険もある。大人であっても破傷風や開放骨折で足や腕に感染症が起きたら四肢切断の危機である。
自衛隊の面々が鉄板入りのブーツを履いてるのは別におしゃれだからではなく、純粋に怪我防止のためである。
中世で使われたペストマスクも当時おしゃれでつけられていたわけじゃない。
それだけ、存在の説得力に欠けていて画面から少女が浮いてしまっているのである。

●辛口カレーについて


前項と併せて、辛口カレーについて考えたい。
オーズ本編を甘口カレーという評価にも言いたいことはあるが、辛口カレーの辛さについて少し考えたい。
パンフレットの言葉の意味が現実らしさ、リアリティを描きたいという意味であると仮定する。
真に迫ったリアリティが描きたいのなら、やるべきことは勉強だ。勉強と言っても机に齧り付けという意味じゃない。取材やインタビューを読むことも勉強の一つだ。
写真集も例外に漏れないだろう。
私は3.11で発行された写真集の中で、津波によって齎された絶望が凝縮されていると感じたページがある。
瓦礫の中で体育座りのまま泣く10代後半くらいの女の子の写真だ。
彼女の家族は無事なのか、その後の彼女は元気なのか、その一枚からは毛先ほどもわからない。ただ、たった1人で泣く少女はまるで迷子で泣き叫ぶ幼児のように見えた。
脅威に対する絶望は大人も子供も関係なく、誰しもに降りかかる現実であることがこれでもかと伝わってくる写真でもあった。
被災民がわざわざ自分からトラウマを刺激するようなもの買うなよとツッコミ入れられることを先んじて潰しておくと、被災写真であっても少しでも記憶に残っている地元の名残がある写真を手元に置いておきたかったのと、被写体の一部に知り合いが載ってるためである。
被災民同士で被災の話をするときは大体「あの時はお互いに大変だったね」という笑い話になる。無論、家族や身内を亡くした人は当事者同士でも震災の会話をするのが嫌だという人もいる。
それに関しては各々の心の歩調だ。問題はその歩調を勝手に他人が測って決めつけて話して良いものではない。
さらに言えば、史実を勉強するつもりのない部外者は気軽に触れるべき話題ではないと私は考える。

そして、心の傷に大人も子供も関係ない。

これは11年前、私が震災の直後に精神科を専門とする保健師から直接習ったことである。
衝撃的な出来事の直後はPTSDのような症状が出るのは当たり前で、急性ストレス障害とPTSDは期間の違い程度しかない。
身体の怪我と同じで傷は傷であり、同時に痛みは主観的なものでありそもそも人と比較するものではないということだ。
実際に痛みの評価基準は視覚的アナログ尺度やフェイススケールなど自己申告が基本である。

辛口カレーに耐えれるようになっている。

この言葉から感じ取れるのは、痛みは個々人の主観的ではなく客観的なものであると一方的に断じているということである。
無論、痛みに関して客観の評価は使うことはある。だがそれは日常の動作がどこまでできるかとか、睡眠時間が何時間かというものを点数化させて深刻度を評価するために使うだけであり、感じている痛みの度合いを他人が決めつけるものではない。
ざっくばらんに言えば、その人に合った適切なケアを考えたり、詐病やミュンヒハウゼン症候群のあるなしを判断するために必要な評価ツールである。
すなわち、他人の感情に無関心であり心理学も精神医学も神経学も学ぶ気がないということである。
まだ「この痛みを共に耐えてもらえると信じたい」ならわかる。それなら覚悟も伝わる。人の心に寄り添う気があるのだとわかる。
いい歳をした大人が、他人に痛みを耐えられると言い切ってることに私は頭を抱えているのである。
直接学ばなくても、専門家に聞くことはできたはずであるがそれをする気がなかったということである。

●世界観について


漫画術P.258ではデカデカと見出しで「読者は世界観に浸りたい」と書かれている。
こち亀などの漫画を例に出し派出所近辺の絵を緻密に描くことで世界観に没頭できるようにしている…というように世界観の重要性を説く記述だ。
この記述が何を言いたいのかと言うと世界観の作り込みが甘いと読者、この場合は映画の観客だが「覚める」ことを指している。
冷めるではなく「覚める」である。
架空の世界に浸れないというのは夢から覚めるのと同じなのだ。
一度「覚めて」しまうと観客は現実から架空に戻ってこれなくなる。同じ夢を見ようとして寝ても見れないのと同じだ。
世界観の解像度を上げるために必要なのは兎にも角にも「作り込み」であり、観客を現実に帰ってしまわせない「説得力」なのである。
レビューのいくつかでも言われていたが、比奈とアンクの対話シーンで電気が通ってる建物が映り込んでいることが指摘されていた。
これによって観客の一部は「覚めた」のである。私もこのシーンについては言いたいことはあるのだが、別件であるためあえて後述する。
私の場合はそこではなくもっと前に現実に引き戻されていた。実は映画を見る前にCM以外の情報をわざと入れなかったのだ。CMサイズの復コアのPVを観た時「古代オーズが世界をほとんどぶっ壊している」という世界観の設定が面白いくらいに伝わってこない。
特撮特有の「いつもの岩場」にしか感じないため、映司がアンクにアイスを渡しているというシーンしか伝わってこなかったのである。
それもあってか序盤で世界が荒廃して、レジスタンスの結成があったと映画で語られた瞬間に私は現実に引き戻された。
正に最序盤である。そもそもオーズの世界観というのはどちらかというとこち亀のような日常系に加えてクスクシエの登場などによって独特の世界観を形成されている。わかりやすいのが町内会の会長夫婦の回だろうか。ご近所付き合いに焦点が当たるところは正に日常系と言えるだろう。
グリードやヤミーという存在は心の闇がテーマでもあり、心の闇に焦点が当てられるのは日常系だからこそ意味があったのだ。
それなのに世界が完全崩壊一歩手前というのは失笑するしかない。
そこで私は「半分ほど覚めて」しまった。
全覚醒ではなく半覚醒くらいで済んだのは偏に俳優陣による肉に血を通わせるような演技力の賜物だ。
そして、世界の崩壊を描くなら世界観を作り込んでほしい。
その世界の人々の生活がどうなっているのか、世界の崩壊によって治安がどうなっているのか。
前述したアンクと比奈の夜間の会話シーンで私がドン引きしたのはこの点だ。
レジスタンスの管轄区域であったとしても、作り手が崩壊した世界で、夜間に女性が一人で歩く意味を理解してないという証明だった。比奈がどれほど怪力で強い子であっても過去にはアンクに鎖で吊るされたこともある。今までだって多勢に無勢であったことも多々ある。物語を考えた人は、比奈が犯罪に巻き込まれないよう配慮ができない人なのだと汲み取ってしまったのである。
そもそも治安を維持する警察が機能するのは現行犯か、110による通報か、被害相談、被害届を提出されて初めて機能する。
完全に証拠を抹消されて事件そのものが起きていないことにされてしまえば、人が死のうが何しようが犯罪は起きていないことになる。不可視の事件である。
ハインリッヒの法則というものが存在するが1件の重大な事件や事故の下には29件の軽微な事件や事故、さらに下には300件の未遂事故や事件があるという法則だ。
事件を可視化させるにしても治安が崩壊した世界では警察の人手が圧倒的に足りないのだ。
さらに崩壊した世界で発生した遺体をどうしているのかという問題も浮上する。
火葬場は機能しているのか。火葬ができないならどうやって土葬しているのかなど。
3.11では普段は有名アーティストのコンサートやスポーツの試合、イベントを行う大きな会場にブルーシートでずらりと数百以上にもなる遺体が並べられた。
その酷さは、戦争を知る年寄りたちが口々に「戦後の荒廃した日本を思い出す」というほどであった。
ビートたけし氏が11年前に「1人が死んだ事件が2万件あった」と言ったことがある。これは人の命が失われたことを「数」で判断したくないという金言であると私は考えている。
なぜなら1人が死ぬことで他者が悲しむのは親兄弟だけではないからだ。近縁の親戚も、遠縁の親戚も、友人も悲しむ。同僚かもしれないし、憧れの人かもしれない。
人が1人死ぬとはそういうことだ。そして、復コアの世界ではそれが一体何億件起きたのだろう。
もうお分かりいただけるだろうが、復コアはそういう点の作り込みが一切なされていないのだ。
オーズと電王のコラボ映画でも多少世界が荒廃していたが、「二十世紀少年」と同じで格差社会として描くことで荒廃具合と都市部の建築物に説得力を持たせていた。子供たちが生きるためにストリートチルドレン化してるところにも解像度の高さが伺えた。
特撮つながりで更に言えば「シン・ゴジラ」は震災の五年後ほどに発表された作品だ。一部からは震災を彷彿とさせて不謹慎だという声も上がっていたが、緻密な描き方に震災に対する勉強量が伺えた。
かくいう私も「シン・ゴジラ」を初回に見た時はフラッシュバックが起きるほど辛かったが、今では在来線無人爆弾観たさに観るほどである。なぜならシン・ゴジラは人間の叡智の勝利だからだ。私はこれを人は災害に打ち勝てるというメッセージだと感じ取った。
復コアにはそれすらない。コロナ禍でエキストラやゲストを呼べないのは致し方ないが、それならせめて脚本や衣装による世界観に現実感を持たせる作り込みが必要だったのではないだろうか。
レジスタンスの面々や映司やアンクの服装はまだしも、鴻上さん、里中さんの服装の綺麗さは異様である。人口のほどんどが死滅しているとうことは水道局と電気会社の技術者たちがいないということである。
飲み水は貴重で洗濯水が限られているであろう世界観にも関わらず清潔な水で洗濯されている綺麗さが衣装に出てしまっているのだ。
TTFCの前日譚を観たが、映画を語る上で番外で補足をするというのはあくまで「映画の中で語られた物語」の設定の補強であり「番外を観なければそもそもの映画を理解できない」というのはやってはいけない手法の一種だ。
漫画家なら漫画で語れと言うように、映画なら映画で語るしかないのである。
前日譚は古代オーズの復活の理由も特に出てこない。前日譚の目的はなんだったのかよくわからない。
もちろんエンタメに現実らしさだけを追求するのは間違いだ。
これはp186〜188にまとまっている。
的を射ていると思ったのが『リアリティを追求していて、芸術的には素晴らしいものの、観客の立場からすれば単純に「そこは観たくないんだよな」と沈んだ気持ちになってしまいます』という記述だ。
総合すると、リアルを追求しすぎるのもいけないが、かと言ってリアルを知ろうとしないのはもっとダメということである。
では、どうすれば世界観を丁寧に作り上げれるのか?
それは、p292にある「(架空の世界を描くには)徹底的にリサーチする」ことの徹底である。
過去に発表された作品を徹底的にリサーチしたり、さまざまな業種の歴史を辿ることもいいだろう。
書きたいものの方向性に近い本を読む、書きたいものに近い題材を扱った映画を観る、取材をする、実際に現場へ訪れてみる。
最近の取材は、直接いくのが難しいならばzoomを使えば済む。
p301にて「ネットでリサーチできないこと」の見出しで言われていることが「必要な時には実際に現場に行って自分の目で見なければいけません」というのが先生の考えだ。
先生の産んだキャラクターである岸辺露伴は幾度も「体験はリアリティを産む」と言っている。
正直なところ震災の話題はネットで探せない公の場では語れないような凄惨な事実もある。
嘘というのはほぼ真実である出来事に一滴の嘘を混ぜるとバレにくいとよく言われる。「実話に基づいた映画」という映画は大体フィクションである。事実にはおおむね事実に沿うがエンタメとして「ここはこういう方が面白いよな」という部分を改変してお出しするわけなので、大体ハズレがない。
個人的にその意味でおすすめできるのは元国営テレビ局の朝ドラや「旭山動物園ペンギン空を飛ぶ」や「マリと子犬の物語」だろうか?
視聴後に史実を調べると、肩が落ちるくらいのギャップがあるので夢を壊さないように調べないことも視聴者の自由だろう。
エンタメも結局はそういうものなのである。
それを知る意思があるか、ないか。
好奇心、探究心があるかないか。
それをわかりやすく、感動的に人に伝える努力をできるか否か。
復活のコアメダルの制作にあたりテレビ版のオーズを5周以上した人もスタッフの中にはいたと後に知ったが、努力は素晴らしいが努力の方向を間違えていると感じた。
テレビの世界観と同じものを描くならまだしも全く違うものを描くならテレビ版のオーズを徹底的に調べても世界観のディティールを深めることはできないのである。
おそらく勉強になったと思われる作品は「この世界の片隅に」や「永遠の0」「ヒトラー最期の12日間」といった高評価を受ける戦争映画だろう。高評価を受ける映画というのはそれなりに理由がある。
特に「この世界の片隅に」は生き証人である女性たちに高評価を得ている。それだけ戦時下の生活に立体感を感じられる作品ということなのである。
そのような今回の世界観に近しい世界観から得られる情報量を今回の世界観に落とし込むことができたのではないだろうか。
それがダメなら実際に、第二次世界大戦の展示がある博物館や広島の原爆ドームに足を踏み入れて学ぶしかない。
私も戦争関係の展示がある箱物には足を運ぶ方だが、心が動いたのは特攻隊員が継母にぶつけた「さまざまな感情が邪魔をして母と呼べないまま出征してしまったけれど、母と呼びたかった(要約)」という手紙だった。
私にとってそれは見ず知らずの人であり、自分にはそんなことができる権限がないにも関わらず「この人を生きてるうちにその母に会わせてあげたかった」という思いが湧いた。
それだけ戦争体験者の言葉は手紙という形であっても熱を帯びて伝わってくるのである。
そして創作そのものの根源はこのようなところから始まるのではないだろうか。
現実はこうなれなかったけれど架空ではどのような形であれ、それを救うことができる。創作とはそういう意味で可能性が無限大なのだと私は考える。
話はズレたが、とにかく必要とされるのは物事を知りたいと邁進していく知識欲だ。
荒木飛呂彦先生の場合は西洋美術に詳しいことは既知の事実であり、実際漫画術の中でもイタリア旅行の話が出てくる。
その記述はp260〜267にかけてなされており、先生はいかにイタリアで見てきた西洋美術に刺激をもらったのかという熱烈な感動が書かれている。
どのぐらい熱烈かというと、読むだけでイタリアに対して「行ってみたい」と興味をそそられる熱量であるということである。好きなものを語る時ほど人は饒舌になり、そしてそれは他者に良い影響を与える。それが感動を生むにつながるのだと私は考えるのである。
また、先生の表現はイタリア愛に止まらない。岸辺露伴は動かないの六壁坂の回ではニコラ・ド・スタールの画集の話が一瞬だけ出てくる。この描写ですごいと思ったのがそもそもド・スタールは実在の画家であり、あの気難しい岸辺露伴がその本一冊だけは手放そうとしなかったという点だ。
この一瞬の描写だけで岸辺露伴はその画家の画集を気に入っているということがわかる仕組みになっている。
近年、説明過多の描写が増えているという話はあるが岸辺露伴のそのシーンはその逆を行くシーンであることがわかるだろう。最小限の表現で、観ている側の想像が膨らみやすい余白のある表現である。
荒木先生はp202〜206にかけて「表現はヘミングウェイに学べ」と説いている。これに関しては実際に著書を読んで欲しいというのが私の考えであるため大きくは割愛する。
私はこの「ヘミングウェイに学べ」の項を読んで真っ先に暴太郎戦隊ドンブラザーズのことが思い浮かんだ。説明らしい説明はないが謎が謎を呼びそして少しずつ明かされていく。構成が丁寧であることが随所から伝わってくる。
世界観を作るというのは、なんとなく話が大きければいいというものではないのである。

●総評


ここまで徒然と書かせて頂いたが、私が思うことは復活のコアメダル とは「構想期間が未熟のまま発進した企画」であると考える。
おそらく10周年に向けて何年もかけて準備してきたものではなく、短い期間で決めて進めて完成させたもののように感じる。
それを悪と呼ぶつもりはないし、その発案者が悪いわけではない。
ただ、作るための時間が俳優さんたちのスケジュールの確保なども含めて短くしか取れなかったのではなかろうかと思うのだ。
脚本も「監修」されていると聞くが、私は「監修」におさまろうとして内容に納得がいかず全部自分で一から書き直したシナリオライターを知っている。そのせいで発売予定が延期に延期を重ねたゲームを昨日のことのように思い出す。
つまりそれだけ監修とは本来時間がかかるものなのだ。監修した人がどのくらい時間をかけてチェックできたのか私にはわからない。ただ非常に短い期間で仕事をこなされたのではないかと考える。
その努力だけは非常に素晴らしいものだと思うが、それはそれこれはこれである。
ただ私は、登場人物一人一人に対して想像力をもっと働かせてもらえなかっただろうかと思うのである。

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