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失敗の経験が活きたコミュニティ運営

平成の後期くらいから、巷SNSなどでも「コミュニティの重要性」「コミュニティマネージャー」「コミュニティビジネス」という言葉を、随分目にするようになりました。「コミュニティ」は、随分前から存在するものでしたが、この数年、急に着目されているようです。

そうした中、ボク自身も、いくつかの「コミュニティ」を運営する立場となることが長く続く中で、個人的に感じていることを一度したためておくことにします。

有機的に長く続くコミュニティ


ボク自身が絡むどのコミュニティも、気づけば結果的に「あれ?…いつの間にか、とても有機的な運営になっているよね…」と、参加者同士が自然と高め合って、長く続くものばかりとなっています。

そうした背景からなのか、最近では、新たにコミュニティ形成を検討している人や、現状の運営がしっくりきていないという人から「盛り上がっている秘訣は何か?」と聞かれる機会が、随分増えました。

実は、ボク自身、「良いコミュニティにするぞ!」と息巻いて運営しているものは何一つありません。
コミュニティについて勉強したこともなければ、ファシリテーター養成講座のようなものとも、恥ずかしいほど無縁で無学な者です。

それでも、どのコミュニティも、運営者が気合いを入れずとも、参加者同士でつながりを深め、高め合い、活動の実践を繰り返しては、さらに意味のある次へのつながりを生んでいます。

そのためなのか…こんなボクのところでも、「どうしたらコミュニティ運営が上手く機能するのですか?」というヒアリング来訪が後を絶ちません。


共通する運営の特徴


  • 個人事業主の高め合いのコミュニティ

  • 次世代につながる価値づくりの対話交流コミュニティ

  • 子供達の主体性が育まれる土壌づくりの少年スポーツコミュニティ

  • 自分を活かして生きるプロセスを楽しむ価値づくりコミュニティ

これらのコミュニティを客観的に整理してみると、共通している点は以下の三点です。

  1. 活動している内容に関心ある方ならどなたでも顔出しできる「開かれたもの」にはしている<オープン性>

  2. 参加者同士はどういう発言してもイイ空気がある<心理的安全性>

  3. 参加する人によって、コミュティへの関わりに濃淡・温度差があるもので、全く構わない<束縛性の排除>

このオペレーションが、有機的なつながりや長く継続することと、どういう相関性があるのかは、分析する能力も持ち合わせていません。

しかし、なぜこういう運営となっていったのかを考えた際、どのコミュニティにおいても意識していることが一つあります。


「優劣」を生じさせないことは常に意識


ボクは、どのコミュニティ運営でも、参加者同士で「優劣」を生まないことだけは日々心掛けています。

「優劣」が生まれてしまいやすい「知識の共有」は、ことごとく排除している一方で、どの場面でも、いろんな価値観のアプローチが楽しくなる「体験の共有」を心掛けています。

参加者間で「優劣」が生まれてしまうと、対等性が崩れるため「対話」機会はどんどん減っていきます。

相対的価値よりも、参加する人のそれぞれ「個」が持つ絶対的価値を認め合う関係性をつくらないと、「リーダー」や「マネジメント」の要素が必要となってきてしまいます。
それでは、柔らかい関係性で集まったはずのものが、その団体への迎合や依存が生まれてきてしまい、「個」のチカラが薄まってしまうんですね。

そうではなく、未来に向けて、自分はどうありたいのかを確認し合う上で、そのコミュニティにいる相互の刺激から、「あ!そうそう!本来私がやりたかったのはそこかも!」みたいなことを、発見し合うものにする。

その「体験」を笑顔で共有することが、ものすごく楽しいんです。

さらに…

参加する人それぞれが、自分の心の引き出しの中の全てを散らかすだけ散らかしても、団体としては、無理に「まとめる」「結論を出す」ということをしないことが、「体験の共有」であることも解ってきました。

案外、自分独りでは、心の引き出しの中の全てを散らかすなんてしないし、お互いに散らかしてみると「あれ!そんなところにキラッと光るものがあるやん!」と気づき合うこと…これが「体験の共有」なんでしょうね。

どのコミュニティでも、これを繰り返していると、いつの間にか上記3つの運営になっていたというのが実情です。


目的の明確化が個の主体性を生む


「コミュニティが上手く運営できていない」という来訪者に、共通している傾向があることにも気づきました。

最初は期待値を抱いて参加してくれる人も、徐々に継続参加者が減ったり、不穏な空気感が漂い始める。その原因の大半が、そもそも何のためのコミュニティだったのかの意味・目的が不明慮であることです。

また、当初はそれを掲げていても、徐々に薄らいでいくか、継続的に参加者同士で確認をし続けていない状態。
つまり、立ち上げ当初から、「どういう目的で、どんな未来を見据えている集まりなのか」…その目的に人は集まっているのであり、さらに、毎回のようにその目的を明確に確認し合うことは、とても大切な気がします。

これは…運営主体者を顔色を見て参加するのではなく、参加者各自が「自分の未来」を見据えて参加することを意味します。
そうしていると、自分の未来はどうしたという「主体性」がある人しか集まらなくなり、これが、「依存」や「迎合」ばかりする姿勢が、自然淘汰される環境設定になっているのかもしれません。

「依存」ばかりしている人、ここは私に何をもたらせてくれるの?という受動的態度しか生みません。
「迎合」ばかりしている人は、自分の未来のためにということよりも、このコミュニティのためにという歪んだ帰属意識ばかりが高くなります。

先に述べた「体験の共有」の本質にも関連しますが、主体的な人ばかりがあつまると、「会合へ関与の濃さ」や「参加リピート率の高さ」で表されるような…「コミュニティそのものに対する貢献度」みたいな、人と競い合ったり比べるようなこともなくなっていきます。

コミュニティを支えているのは、結局は、自分の暮らしや働き・子育てにおいて、どんな価値に繋げようとしているのかという「個の主体性」というあたりまえを確認し合う…そのためにも、目的の明確化は大切なことなのでしょう。

何年経っても目的を確認し合っていると、主体性ある参加者たちの能動的なアイディアによって、「公園で知り合った同士の子供が、どんどん高次元な遊びになっていく」様相そのままの姿になっていきます。


コミュニティのビジネス化は自信がない


コミュニティという集合体が、ビジネスを始める…つまりは営利的組織として立ち上がるケースも散見するようになりました。
もちろん、スタイルはそれぞれの思惑もあるでしょうから、否定するものではありませんが…ボクらには、とてもできません。

なぜなら、コミュニティを営利組織にした瞬間、まず、組織運営側も構成員にも、「対価」を主体とした「帰属意識」が強くなってしまう…この構造的リスクの高さに、ボクらは対処する自信がないからです。

この構造は、先述の運営指針とは真逆の状態を生みやすい。
参加者に「ここにいればお金を貰えるという依存」と、「ここのために自分を投じなければという迎合」を生んでしまいます。

これは、運営者からの評価も高めようとするため、相対的な帰属意識の高さもアピールしてくるようになります。
そして、運営者サイドも、外部からの対価が想定以上のものにならないと、不本意ながらも帰属意識を笑顔で押し付けた「やりがい搾取」の構造が生まれやすい。

運営者となる機会が多いボク自身、決して心が強い人間ではないので、おそらく、そういう空気をつくってしまうでしょう。(苦笑)

主体性は個々にあるのではなく、集合体が主体となる構造…それはもはや、同調圧力を環境基盤とした忖度が生まれる環境となるので、ボクが意図しているコミュニティ運営には程遠いものになります。

運営者サイドも参画者の方々も、参加者個人が感じる「コミュニティへの適度な心地よさ」というのは…「相互の未来と成長を感じること」「未来の自分達に期待したくなること」…そこに尽きると感じています。

相互に「未来」を感じるから、自分のスキルを能動的にお裾分けしていくようになるし、参画メンバー同士で自然と高め合えることも、心地よい悦びと「納得」が生まれるのでしょう。

そこには「やりがい搾取」という感覚はなく、自由闊達な発想や、アイディア、スキルなどを、惜しげもなくフラットに出し合うようになります。

 

過去の失敗経験が活きている


この数年、「コミュニティ形成」が、俄かにブームとなっているようにも思います。昔からある自治体など、地域性だけでなく「価値観や目的などを共有し、共同性などをもつ集団や社会関係」みたいな感じで定義づけられているようです。

実は、ボク個人的には、未だにこの「コミュニティの定義」については、今まで一度もしっくり来たことがありません。

確かに…諸々の「活動の寄り合い」を運営して、ボクもそれを手っ取り早く「コミュニティ」という表現は使っています。そして、コミュニティと言われている場に呼ばれて、「ファシリテーター」を担うご依頼いただくことも多々あります。

そんな立ち位置のボクが、今さらながらこうしたことを公言するのは、少し憚られますが…ボクらの運営場所は、「任意団体」とか「笑顔が絶えない対話の寄り合い」っていう表現でエエんちゃう?というのが本音なんです。

「コミュニティ」というより「バラエティ」。
「バラエティ豊かな人達の寄り合い」な活動団体なんですね。

世間一般的な今のコミュニティブームでは、どれだけ人が集まるかとか、どれだけ話題になるかというものが多かったり…参加した人が、このコミュニティは凄い!と絶賛して、知人友人を誘うみたいな空気が漂います。
個人的に、ココに違和感があります。

二十年前ほど前、「童心に還って本気で遊ぶ会」のようなものを立ち上げて、その数年後には自主解散させた経験があります。

当初は、一人ひとりの主体性によって集まっていたはずの任意団体だったはず…その遊びの会に呼ばれる・参加できることがステイタスみたいになってしまい、五十人くらいの規模になると、「参加者全員が楽しめる遊びを、中心メンバーがもっと企画すべきだ」なんて話も出てきてしまいました。

そう、「遊ぶ」ということですら、主体性がない人が集まってしまう。
そこに、楽しいことを作って欲しいという依存性を感じたので、ある日突然ではありますが、「今日で解散♪」と宣言しました。

要は…「主体性あるバラエティに富んだ人の寄り合い」であれば、コレだ!という全員が満足する結論を出す必要がないはずなんです。
一人ひとりの感じ方で、私は今日からコレをしてみようという変容が、各個人にナニかしらあれば充分なんです。

事務局はあれど、運営マネージャーや、ましてや幹事と呼ばれる人の存在などは必要ありません。この時、解散せざるを得なかった失敗経験が、ボクには大きな財産となりました。

要は、誰にでも理解できる任意団体にしようとするから、無理があるのであって、「この寄り合い、人にどう紹介して良いかワカラナイだけど…私自身が活かされていくんだよね。」でイイんじゃないでしょうか?

「ウソの無い自分で本気で仕事も暮らしも子育ても楽しめる気づきがあるから楽しい!…自分を活かして生きるために、ここでやりたいことがあるなら紹介するよ」くらいの感覚がイイんでしょうね。

つまり、コミュニティの本質というのは、やりたいことが無い人には、辛い寄り合いにしかならにのかもしれません。


まとめ


ボクは、コミュニティのあり方を研究してきた者ではありません。
学も無ければ思考も浅い人です。
それでも、経験を重ねてきたことのプロセスの途中で、自分なりに振り返りとしてしたためたコラムです。

これがコミュニティのあり方だと強い主張をしたいわけでも、他のコミュニティ団体を批判するものでもありません。

「なぜそんなに楽しく長く続けられるのでしょう?」というヒアリング来訪が続いているので、いつも回答している内容を、コラムにしました。
ココにしたためたことが、これ以上でもなくこれ以下でもない等身大のことですので、ヒアリングをご所望でコンタクトをいただいても、不躾な表現とはなりますが、これ以上のことを語ることはほとんどありません。

最近では「場の活性化」という切り口で、同様のヒアリングも増えました。

しかし…ボクらは、「場の存在を超越」することで、「主体的に自分を活かして生きる大人の魅力を、次世代の子供達に伝えていくバラエティ活動」を新たに始めます。

これは、特定の「場」に人が集まるのではなく、全国津々浦々、既に自分のなりわいや暮らしを「場」としている人達が、柔らかく深く関わっていく「バラエティ活動」となるので、特定の「場」すら無くそうとしています。

したがって、ボクらの活動は、真正面からコミュニティ形成を研究している人達には、何ら参考にもならないとは思います。

それでも、ボクらの活動が「コミュニティ」と言えるなら、失敗の経験を活かして辿り着いた運営スタイルとして、内省のためにもコラムにします。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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