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自然と笑い合える環境づくりの本

笑顔はつくるものではない

  • 働くとは何か

  • 価値とはどういう構造でつくられるのか

小学生でも解るようにコレを説明するのは、親や大学生などだけではなく、勤めに出ている人でもかなり難しいらしい。

これらを図解を用いて体系的に示して『未来に期待したくなるジブンスイッチ』という本にしたところ…「子供に説明する前に、夫婦共に親である自分達が解っていなかった」という多くの大人の気づきになっていると知って嬉しい。

人の持つ感性や想いという「無形資産」が、暮らし・働き・子育てのあらゆる価値づくりの土台となっている構造を、誰でも理解できるようにしたためた本だ。

著書「未来に期待したくなるジブンスイッチ」の全体像

教育なのか自己啓発なのか社会学なのか、どの書棚で売られるかわかりにくいと出版各社に断られて、インディーズレーベル(自費出版)で出したが、初版の800冊は三カ月で完売となった。

本屋では売られていない本を増刷して、今もWebサイトで販売中。

社会に自分を合わせる辛い日々を送りながらの作り笑顔よりも、自分に合う社会を身近なところからつくり、自然と笑みがこぼれる「環境」を自ら築くことを若い世代に薦めるために執筆したものだ。

無理をして笑顔をつくるのではなく、楽しく価値づくりに勤しむことから始めてみると良い。


ジブン解放を促す


今の社会(学校や会社)に馴染めないことが敗者ではなく、所得や資産を増やすことで数%の勝ち組と思い込む人たちの全てが心豊かなわけでも未来の幸せを保証されているわけでもない。

慢性的な人口減を辿る一方のこの国では「お金」が中心で回る資本主義経済の常識や全体主義は通用しなくなるからだ。
今後は「人の心」が中心である民主主義経済が求められ、そうなるといよいよ各個人の主体性と知性が求められる。

「知識」は誰が答えても同じものになるが「知性」は人によって応えが違うから面白い。
人と違うことが求められる発育環境と経済循環こそが、次世代の心豊かな社会形成につながる。

だから、人と違うことに罪悪感を持つ・競争に勝てないことに敗北感を覚える必要などない。
さらに、自分を「活」かして「生」きる「者」…それこそが「生活者」であるという観点から、自分らしさを解き放ちたくなる内容に仕上げた。
(編集のお手伝いをいただいた湯本理絵さんにも感謝しかない)

本書を大雑把に要約すると、以下の二つの「あたりまえ」のことを、構造で理解することを促すために図解を用いて説いている。

  • 経済の本質はありがとうの循環であるということ

  • 無形資産があらゆる価値づくりの土台になっているということ

精神論ではなく、構造で理解する人は行動が変わる。

経済の中心にはお金ではなく人の心が求められる

勤めに出ている大人だけではなく「自分は何を学びたいのか・何のために学びたいのか」という「自身の主体性」が重要であることは、二十歳前後の若い人達や子育て世代のお母さん方にも良い影響があるようだ。

「まずは自分で良いんだ!」と、その日から自分らしさを解き放つための歩みに変わってくれることを読者から届くメッセージで確認でき、著者としてもホッとしている。


誰もが生れた時から資産家


「主体性」や「好奇心」は、人によって全く違うもの。
これらは人に教えられるものではなく、本来は誰もが生れながらにして持ち合わせている「無形資産」である。
つまりは、そもそも誰もが他者にはないものを持つ「無形資産家」なんだ。

この「無形資産」をさらに磨くと他者や社会とのつながりの「がんばり方」を間違えなくなる。

ところが就学した途端に、画一的品質管理のような教育環境を社会全体で造り出されていることから、その「無形資産」は自然と姿を消していく。

文字通り形の無いもので見えにくいため、大切な資産が消えていくことは、本人だけでなく近親者も気づきにくい。

保育園や幼稚園までは「一人ひとり違って良い」と認められながら、就学以降はそのニュアンスはどんどん薄らいでいく。
感性や知性を深めることよりも、知識と情報処理能力を高めることが優先されるようになるからだ。

これは、家庭や学校内だけの問題ではない。
経済システムも含めた社会全体の問題だ。

大規模開発の都市計画、マスマーケティング主流の流通システムなどによって「特定の人達に都合のいい人」として、働きも暮らしも、人とは違うことは認められても、決して人とは違うことが求められることはなかった時代だった。


社会全体がつくりだす包摂


社会全体で造り出されたその空気では、各個人が何か得体の知れない抑圧と枠組みに収まるようになり、そこに上手く収まることで作り笑顔でいることが人生を安定させると思い込まされる。

人より劣ることや人と違うことに孤独感と焦燥感を植え付けておきながら、その救世主かのように存在して個人を社会の一員に取り込むのが、今の社会全体が造り出している「包摂(ほうせつ)」と言える。

「包摂」は、ある一定の概念こそが「世の常識」だと誘導して、そこに多くの個人を取り込んでいくことを意味する。

そうした空気に取り込まれる個人は、どうしても独自の感性と知性を失いがちとなり「顔が見えない部品の一部」として負担と疲弊が重なる。
しかしそれがまた、特定の人だけに都合よくいろんなものを搾取されていくレールから脱却できないという悪循環に巻き込まれることになる。

経済の中心がお金だと疲弊循環となる

それが資本主義だというのなら、これは本来の「経済」とは言わない。
「世をおさめ、民を苦しみから救う」という「経世済民」ではないからだ。

社員が幸せになれない会社が、顧客から長年の信用と信頼を築く価値づくりができるはずもないことにも通じる。

一方で、「生産者」と「消費者」…どちらの立ち位置であっても、常に変わらず「自分を活かして生きる者」こそが、『生活者』だと考えている。

そのためにも他者の幸せにつながる価値を産み出す「生産者」である一方、自分では実現しえない価値を他者から与えてもらうことをありがたく感じる「消費者」でありたい。

要は、生産も消費も「主体的に自分の感性を活かして生きる者」でなければならないということだ。
そうした一人ひとりの営みがあたりまえになると、経済は本質的に「ありがとうの循環」になっていく。

自分を活かして生きる者こそが生活者だ

しかし「そんなキレイゴトよりも、今の社会風潮のほうが、自らの思考性や感性を磨く必要もなく楽(らく)な生き方ができる」と肯定的な人もいる。
それが正しい生き方という「包摂」こそが恐ろしいと個人的に感じている。

そういう状況を甘受して、特定の人達が造った枠組みに自分がハマっていることから脱却するつもりもなく、無理をしていつも笑顔をつくりだそうとしているのは、残念だがどこかがんばり方を間違えているとしか言いようがない。

少なくともボクは、自分に嘘をついて生きていきたいくない。


他者よりも自分に期待する


もちろん、本気で楽しいと思えることや納得できるまで掘り下げることは、何一つ楽(らく)なことがない。

それでも、自ら楽しいことを納得できるまでやらずに、楽(らく)をしたがるということは、他者に期待し過ぎていることを意味する。
そして、他者に期待してばかりだと、期待値を上回らなかった人への憎悪に執着しがちとなる。

実感するところでは「これだけのことを私は我慢してきたのだから、これくらいの見返りがあって良いはず」と言わんばかりの次世代の子供達には見せたくない姿で醜い権利主張の大人が増えたように思う。

分不相応なブランド物を手に入れたり、高層マンション最上階に住むステイタスを手に入れる散財に走るのは本当の心豊かさと言えるだろうか。

そんなことでは、本質的なストレス解消になるはずがなく、むしろ小さな感動を大切にする美意識も希薄になっていく。
心身共に負の財産を蓄える一方となり、特定の人達の利益の最適化に加担しているだけということにそろそろ気づいてもいい。

そもそもストレスフリーというのは、ストレスをなくすことではなく、意識を自由にすることが本質。
社会に自分を合わせて自分に合う社会を築かないなら、いつまで経っても権力や資本力などの何かしらのチカラに迎合するばかりで、自らの意識を自由にすることができずストレスが溜まるばかりの社会だ。

そんな社会で、多くの子供達が「早く私も大人に成りたい」だなんて思うだろうか。

そんな大人にはなりたくないと思う子供が増える中で「競争社会に生き抜いてあなたは勝ち組になるのよ」という虚しい支配者養成社会を築いてしまっている親達も、そろそろ自分と同じ轍を踏ませる価値観の押し付けは止めても良いのではないだろうか。

まあ、素直になるのは、大人に成るほど勇気が要る。
だから、なかなかそういう自分であることを認めようともしないのが実情なんだろうけど…それでは自分の未来に期待したくなる子供は減る一方なんだよね。

ボクは、子供の数が減ることよりも、未来の自分に期待したくなくなるような幼い頃から大人のストレスを受け止めている子供が増えるほうを憂いている。
子供達は大人の嘘を見抜く天才達だしね。


段取りを間違えない


まずは我々大人から「勝ち組」になることよりも「価値組」になることだ。

競争社会で生き残ることよりも、自分だからできること・自分にしかできないことに向けて、自分にできる価値づくりは何かを問うことを今日からでも始めるといい。

勝ち誇った笑顔や負けていても無理をして自分が笑顔をつくるより、他者の自然な笑顔につながる価値づくりが楽しいと思えることを築くことが大切。
その段取りを間違えると、必ずがんばり方を間違える。

つまり、他者との比較や、他者への依存や期待を膨らませるよりも、まずは未来の自分に期待したくなる生き方に変えることをぜひおススメしたい。

誰もが生れた時から持ち合わせていたはずの「主体性」と「好奇心」を呼び起こして欲しいんだ。

その二つから湧き出てくる自分独自の「感性」を磨き、その感性のまま実践力を高めることで、本気で価値づくりを楽しむようになると、必ず何かを手繰り寄せられるようになる。

本気で楽しいことを自ら率先していれば、無用な勝ち負けでの作り笑顔なども不要となる。
だからこそ「経済はありがとうの循環でできている」ということを構造で理解すること自体が、幼少期からの「発育環境」では不可欠となる。

「美意識」は日々の暮らしの中に宿るものなので、その日から劇的な効果が表れるわけではないが、必ず未来は変わる。

この「価値づくり」の根幹となっている「経済はありがとうの循環でできている」というあたりまえ構造を、どういうわけか学校では教えてくれない。

子育ての世界と、価値づくり(経済)の世界が分断され過ぎていることが残念でならない。
子供達の主体性が育まれる土壌づくりと、経済活動での主体的価値づくりには深い相関性がある。

親・学校・課外活動(少年スポーツなど)では、子育て論が多く行き交うが、価値づくりの本質を交えた対話が生れないと、やはりどこか「がんばり方」を間違えている。

したがって、教育と経済のボーダーラインの橋渡し、そのボーダーラインを撤廃する意味合いで、本書の内容をしたためている。

一人の読者から届いたこのコメントもとても印象的だ。

「何度読んでも響くところが違う。あたりまえのことを再確認するっていうことは本当に勇気がいる。それでも、子供に諭すばかりではなく、まずは自分のやりたいことを明確に示すことから始めた。」


失敗のクオリティを上げる


やりたいことに何の意味があるのかを周りに理解されずとも、やってからその意味を自分で見出せばイイ。

さらに、やりたいことや挑むことが増えてると失敗の数も増える。
その失敗の全てを次への糧することが習慣化されると、全てが自分オリジナルの財産になっていくことを実感している。

そうやって主体的に挑み続けていると、とんでもなく深刻な失敗も、不思議と後から笑えることばかりになる。
その回転率が上がると、失敗のクオリティも上がるからなのかもしれない。

もちろん「自分がやりたいことが何か」という主体性をハッキリさせること自体が楽(らく)ではない。
しかし、その主体性を呼び起こさないから、常に他者に依存してばかりの楽な生き方となる。

要は、他者に依存してばかりではなく、社会に自分を合わせずに、自分に合う社会を身近なところから築くことが「自分らしさを解放する」ということになる。

自分独自の感性を磨くことで「無形資産」はブラッシュアップされ、自分をさらに解き放つことができるようになる。

要は『未来に期待したくなるジブンスイッチ』という本は、草の根から笑顔が育つ土壌づくりとなる「自分解放運動」の一環とも言える。


一人の大学生の感想


この本を出版したことが機会となり、明石市の「木のおもちゃ」を販売しているお店で、本書を取り扱ってくださることとなり、著書の内容について講演会も実施した。

そこに参加していた大学一回生の感想が、この上なく嬉しいものだった。
本人の快諾も得て、彼が寄せてくれた聴講者アンケートの文章をここで披露する。

これまでの生活が競争の中で自分の価値を高めるというものだったので、そうではなく自分の個性を突き詰めてやりたいこと、それを誰にしたいのか、競争の中で勝ちを得るより競争せずに価値を創るということに衝撃を受けました。

とりあえず資格取っとくとか、とりあえず大学に行くとかじゃなくて、もっと本質的にやりたいこと、だれかにしたいことを家族と話したいと思いました。

中学、高校、大学と感じてきた生きにくさと、こうあらなければいけないと言う社会のレールに強制的に乗せられている感覚がありました。
今回、こんな生き方をしている方がいるんだって知れて、強張っていた気持ちが少し楽になったように思います。

あと、人は人との繋がりとか出会いとかで変わるもので、それがどれほど大切なのかわかったとも思います。
僕はこれまで数年間ほとんどの出会いにいい意味を見い出せなかったので、どうしても出会いとか繋がりみたいなことを歌う歌詞に共感できませんでした。
というか捻くれていたので、そんなことないだろ!と思っていました。
だけど、今日で変わったと思います。

今回のセミナー本当にいい機会、いい出会いであったと思います。
河合さんの子供の頃の「なんで?」に真っ直ぐな感じがすごく共感できて、そういうところから自分のなんとなくふわふわしたまま言語化できてない、抑圧されてることに対しての気持ち悪さとかを真っ直ぐ力強く受け止めて考えてきたロックな方なのかなと思いました。
今僕が大学を休学していているのは向いてない生き方に疲れたからでした。
今回このセミナーに参加したのは、家族が一緒になって僕の生き方を模索しているからでした。
自分の言語化できていないいろんな生きづらさを力強くこうじゃね?!って語る河合さんの姿にすごく勇気をもらえました。

そして、講演後に直接語り掛けてくださったようにいろんな人に出会いたいと思います。
ちょっとの出会いがすごく自分に影響を与えるとわかったので。
総じて、本当にありがとうございました。

聴講後のアンケート記入より

等身大の彼の表現は、彼と同世代の学生さん、またはそうした世代を我が子に持つ親御さん達にも心当たりがあるものではないだろうか。
登壇者・著者として、これほどダイレクトに伝わってくる嬉しいメッセージはない。


焦らずに理解の変化から


ボクら世代がやるべきことは、いきなり常識を覆すようなことではなく、いまある常識を疑うことをていねいにやることで良いんだろう。

常識を疑うことすら認めたがらない人が多いだけに、いきなり常識を覆そうとしても摩擦が起きやすい。
その前に常識を疑うこと・違和感を覚えることを楽しむことだ。

異なる価値観や経験則を持った人と触れ合うと、どうしても違和感を覚えることも増えるので避けがちだが…違和感はいままでの自分の常識を疑ってみたくなる絶好の機会とも言える。

だから、違和感を嫌悪感にしてしまうと、自らの成長を自分で止めてしまうことにもなりかねない。

つまり、異なる価値観の人が集い、一人ひとりが奏でるものや音が違う不協和音を愉しむことが肝要となる。
そして、そうした不協和音を楽しむためには、まずは一人ひとりが「本当の自分は主体的に何をしてみたいのか」という「音」を自らの奏でてみることだ。
 
ボクが各所で築いている「場の空気」は、いきなりクリエイティブに「創る」のではなく、心理的安全性の担保を確保しながら誰でも自分の音色を「奏でる」ことができる環境づくりでもある。
 
それをしていると「知識の共有」をすることよりも、自然と「体験の共有」をし合うようになる。
知識の共有は優劣が生れがちだが、体験の共有には優劣が生じないため、共感が生まれやすい。

競争することより共創すること…その共創の前に共感である。
ジャズセッションのようにその場にいる音が弾み始めると協奏になるんだ。

次世代の子供達の意識を変えたければまずは我々大人から!
教育現場の現状を嘆いたり教師を批判する前に、日々の生活態度の全て…つまり大人こそが「自分は何がしたいのか」という主体性が求められている。

「さて、自分は何のために産まれてきたんだっけ?」ということからでも、恥ずかしがらずに発言してみればいい…。
譜面に描くばかりではなく、音にしてみる勇気を持つことから始めてみてはどうだろうか。


まとめ


口癖のようになっているが、ボクは棺桶に横たわっている時が満面の笑みになっていることが決まっている。
豪州横断野宿一人旅でのトラブルで初めて死と直面した21歳の時に、そう決めたからだ。

死は不測の事態や不可抗力でいつ訪れるか判らないと知ったその日から、いつ死んでも納得できる生き方をすることにした。

だからこそ、毎日悔いを残す日にせず、毎朝目覚める都度「今日が残りの人生の初日」だと考えると、今日も一日本気で楽しめることをしようとワクワクして仕方がない。

そのため先に述べたように、何一つ楽(らく)なことがない。
本気で楽しいことを実現するのは、何一つ楽(らく)ではないからだ。

それであっても、悔いのない人生っていうのは…「あの時に本当はやりたいことがあった」「それを自分でやっておけば良かった」という「後悔」を極力残さないこと。

やらずに後悔することがなくなっていくと、いつ死んでも納得しているはず…これが個人的な死生観というところだろうか。

無理をして笑顔をつくる日々などなく、自然と笑みがこぼれるように生きてきた分、棺桶でも笑ってることが決定している。

有限会社バックステージ
文化形成デザイナー
河合義徳

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