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「競争」の美徳化は子供も大人も疲弊させる ≪後編≫

前編では、「競争」と「切磋琢磨」は、目的が全く違うため、同義語として扱うのは危険なこと…さらに「競争」による疲労は、肉体的なものよりも、寝ても休んでも回復しづらい「精神的疲労」ばかりが募りやすいことを述べました。
後編では、その弊害が大人社会でも、子供の教育でも何を産んでしまっているのかを考えてみます。

■競争心理は遊びの中で充分

イギリスの哲学者、バートランド・ラッセルは、「競争心理」は、誰もが幼少の頃から自然と「遊びを通じての本能的欲求」の一つとして持っているものと示しました。

そう…周りから競争心を掻き立てる必要などなく、「競争心理」というのは、そもそも人間の本能的欲求に存在しているものだそうです。

つまり、幼少時期にある「筋肉を動かす自由、運動の自由、騒ぐ自由、仲間をつくる自由、意識を自由にする自由」においての、自らの成長過程での「遊びを通じての本能的欲求」なんですね。

確かに、遊びを通じて自然に生まれる「競争心理」なら、人を成長させるものにつながるということは腑に落ちます。

幼児に「さあ、かけっこだよ…よ~いドン!」と声掛けすると、喜んで駆け出すのは、その「走る楽しさと自由」の本能を引き起こしているだけに過ぎないというわけです。
したがって、先に述べた、「争いに勝つ」「相手を打ち負かす」という意味合いと、全く異質なものです。

ココで投げかけたいことは、今の社会風潮では、その自由や遊び心などは超越させてしまい、人を蹴落としてでも生き残り賭けるような事を彷彿させるエッセンスを不自然に加えて、過剰な「競争」を煽っていないか?ということです。


◇競争に他律性が入ると危険

「自分はどのように生きたい」という主体的・自律的な人間本来の本能的欲求には、自由や遊び心を感じます。

「とにかく生き残れる勝者となることだ」という他律的な使命感が漂う環境だと、毎日が息苦しくなり、生きがいも感じにくいものになります。
「どれだけ生きるか」よりも「どう生きたいのか」という主体性が芽生える機会もどんどん奪っていくことにもなりかねません。

過剰な「競争」の中で勝つことは、瞬間的な成長と、優越感からのモチベーションとして、その場では「自信」につながることはあるでしょう。
しかし、未来永劫「勝ち続ける」ことができる人というのは、ごくわずかな米粒ほどの数の人です。

大半の人は、自由と遊び心が長期的に奪われ続けて「無理に頑張らされていた」ということには、後になってから気づきます。

  • これほどまで頑張ってきた自分は、一体何だったんだろう?

  • 自分は何のために頑張ってきたんだろう?

ずっと競争社会に身を置かされ、自己肯定感も奪われやすい環境であった事に気づいた時に、虚しさと無力感しか残らない人達もたくさんいます。
遊び心を忘れぬ主体性からの競争心ではなく、不毛かつ他律的な競争原理は、多くの人の頑張り方・歩み方を間違えさせてはいないでしょうか? 

 

■誤解されやすい「国富論」

競争原理の濫用は、経済社会・オトナ社会でも散見されます。

「神の見えざる手」で有名な経済学者アダム・スミスの「国富論」というものがあります。
その一部分…「経済は自由な市場の競争に委ねればうまくいく」というところだけを、資本家の都合の良いように上手く使われがちなんです。

  • 競争力がない者は敗者として淘汰される

  • 敗者として淘汰されるのは自己責任だ

そんな危機感を煽り、生産性を高める目的で、精神的疲弊など気にせずに、とにかく競争させるという構図…これが、企業文化になっている事業者は、今でもたくさん見受けられます。

ところが、アダム・スミスでは、「私益追求に伴う弊害が、市場での主体間競争によって除去され、浄化されること」「国民全体が豊かにならなければ国は豊かにならない」という大前提を唱えています。

そうしたアダム・スミスの本意とは程遠く、19世紀には、為政者(いせいしゃ)達が「神の見えざる手」を誇張して、独占利潤を含めた無法な私益追求までも正当化していました。
「競争」の概念を、歪んだ正当性にして、上手く活用していったわけです。


■教育における競争概念への警鐘

先に紹介したバートランド・ラッセルというイギリスの哲学者は、教育における「競争」に対して、次のような警鐘を鳴らしています。

競争的な精神の習慣は、本来競争のない領域にまで、やすやすと侵入してくる。競争に参加している時、人々が恐れているのは、明日の朝食にありつけないのではないかということではなく、隣近所の人達を追い越すことができないのではないかということである。
人生はコンテストであり、競争であり、そこでは優勝者のみが尊敬を払われるなんていうことになりがち。
こういう考え方は、感性と知性を犠牲にして、意志のみを不当に養うという結果をもたらす。

バートランド・ラッセル「幸福論」
  • あれ?うちのお父さん、そうなってしまっていなかな?

  • あれ?自分が勤める職場で感じるストレスはコレかな?

そんな風に感じませんか?

経済学者のアダム・スミスも、哲学者のバートランド・ラッセルも、二人に共通しているのは、「道徳的・道義的アプローチ」の重要性を説くことを欠かしていないという点に、ボクらはもっと着目すべきではないでしょうか。


◇「ありがとう」の反対語

戦って勝ちを得るのではなく、人と戦わずに価値を創ることに「切磋琢磨」する…このほうが、「価値を認めてくれるお客様(困っている人・喜ぶ人)の存在」を第一に考えるようにもなってきます。

「経済発展こそが美徳」とされがちな世知辛い今のご時世で、不毛な競争原理を掻き立てる風潮…これは一体、誰が造っているのでしょうか?

「経済」は元来、中国古典の「経世済民」から来ている言葉です。
自分の働きが、世の中の誰か(民)を救済する…
その徳行によって、自分に所得が生まれる…
さらに、また違う誰かの徳行によって、自分が助かり、自分の所得が人の所得になる…

だから、自分にできることからはじめる…
そして、自分だからできることに気づく…
さらに、自分にしかできないことを築く…

鍛錬を重ねていくうちに、それらが自分にできて「あたりまえ」のことが、世の中の誰かにとって、とても貴重な事として喜ばれると「ありがとう」と言われる。

「ありがとう」の対義語は「あたりまえ」です。
この「経世済民」が、経済の本質です。

何度でも言います。
経済は「ありがとうの循環」でできているのです。

ここに、「勝者のみが称えられる過剰な競争」が根底にあると、人間の醜いエゴがむき出しとなり、パワーバランスは崩れます。

為政者や資本力によって、人為的に造られた「常識」をボクらは気づかぬ間(ステルス的)に擦り込まれている…その象徴として、「競争により成長する」という歪んだ常識を植え付けられてしまってはいないでしょうか。

また、実はこの「常識を疑う」ことの必要性は自覚しているのに、無関心を装ったり気づかないフリをしている人もたくさんいます。
でも、結果的には、いくら休んでも疲労が取れない環境を、自分達で築いてしまっているのと同じことです。

「国際競争にも勝ち抜いてこそ、生き残ってこそ」の論調から、「強い日本・強い子を育てる!」…令和の世は、富国強兵ではないはずなんです。「勝てない人は弱い人だ」という固定観念で、静かに自分達の首を絞めていないでしょうか。


◇「弱者」は「敗者」ではない

これは自慢でもなんでもなく、事実としての表現なのですが…ボクは、人と競い合うことを辞め、独自の価値を創るスタイルを徹底したことで、今は「出逢いたかったお客様」しか存在しません。 

独立起業してから今のスタイルを確立するまで、紆余曲折さまざまな苦労の繰り返しで、大手企業にはできないことを組み立てています。
「ビジネスは弱肉強食の世界」と「競争力」の重要性を説く人も多いですが、「弱者」は「負け組」ではありません。

「いかに戦略的に比較優位性を見出すか」という相対的価値では「強者」に飲み込まれる…もしくは価格競争に巻き込まれるだけでした。
だから、自然な成り行きだったかもしれません。

いずれにしても、競争に巻き込まれるのではなく、取引先と共に未来につながる価値を創る「共創」スタイルを貫き続けて、相対的価値ではなく「絶対的な価値として、あなたにお願いする意味がある」と感じていただけると、どの仕事も本気で楽しく取り組めます。

場合によっては、マーケットシェアを奪うのではなく、新たなマーケットプロデュース(市場創造)となるケースも出てきています。 

クライアント事業者さんが掲げたビジョンに対して、どうすれば事業者の先にいる顧客に支持される価値が高まるのか…多くの仲間と「切磋琢磨」して「共創」の実現性を高めることに邁進しています。

  • 競争しなくなると人は成長が止まるのか?

  • 競争していないと価値創造力は向上しないのか?

胸を張ってお答えしましょう。
答えは「NO !」です。

ハッキリ言って…競争しなくても生きていけます。
むしろ、競争しない方が自分を活かして生きていけます。
(よろしければ「生活者の意味」を考えたコラムもお読みください)

過剰な「競争」に巻き込まれず、「切磋琢磨」すれば、人の成長も価値創造力も、必ず向上もします。
もう少し、「競争」という言葉を安直に多用するのは、少し控えませんか?

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

#競争と切磋琢磨は違う
#競争原理こそが成長を促すという固定観念は危険
#経済はありがとうの循環でできている
#子供達の意識を変えたければまずは我々大人から
#勝ち組より価値組
#この国の常識を疑ってみる

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<参考論文>
スポーツにおける「競争」批判の論点
〜B.ラッセルの競争批判に基づく競技と道徳性の関係性の一断面~
現在は、ネット公開されていたPDFは削除され、以下の通り国立国会図書館サーチにあるのみ



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