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企業不祥事がなくならない理由

偽装表記、不正会計、不正検査…こうした組織ぐるみの不祥事がいつまでも後を絶たない。
個人的な横領や不正とは違い、組織ぐるみという罪深き点は社会的な影響も大きく「正直者が馬鹿を見る」という諦めムードも漂わせてしまうことだ。

もちろん、こうしたことが続くと結果として脅かされているのは、一人ひとりの生活者と将来ある子供達の「安全な暮らし」であることは間違いない。

それでも、こうした組織ぐるみの不祥事は、何十年も無くならず「組織上層部の姿勢」や「組織体質の問題」であることが原因としていつも取り沙汰されるが…。

その原因は、果たしてそれだけなのだろうか?

登壇時のスライド①

これについて最近登壇した大学でも「就職活動に入る前の学生」に問いかけていることでもあるので、noteにしたためておくことにした。


働きは誰のため?何のため?

そもそも人の「働き」というものは、「誰のため」であり「何のため」にあるのだろうか?

登壇先の大学でも学生に問うているこのことは、2022年にインディーズレーベル(自費出版)で出した著書『未来に期待したくなるジブンスイッチ』でも問いかけている。

「自分は何のために働くのか?」
もちろんそれは、自分の日々の暮らしや家族を養うために稼がなくてはいけない。
誰もが大切にしなければならないことであり、ぜひ家族の幸せを想う気持ちは大切にしたい。
 
それならば。
「自分の働きは誰のためにあるのか?」
これは、自分が属している会社やお店に自分達が産み出した「価値」を高く評価してくれる「お客さんの未来の幸せ」のための働きでなければ、どんな会社でもお店でもいずれお客さんからの信頼や期待は薄れていく。

つまり、この二つの問いのどちらかの答えには「お客さんに認められる価値」という言葉が入っていることが「あたりまえ」でなくてはならない。

しかし、日々の自分の業務に忙殺されていくと、この「あたりまえ」がどうしても崩れていき、働き甲斐や生き甲斐を見失うことがある。
職場での自分の働きがお客さんの幸せにどのようにつながっているのか、それが明確でないままの職務遂行となると「自分の仕事の意味」や「働きがい」を感じる機会も徐々に減っていく。

そうした大人の背中を見て育つ子供達は、大人になって働くことへの夢や憧れも薄らいでいるとすれば、子供達は何のために何を学んでいるのだろう?

自分の仕事が、どういうお客さんの幸せにつながっているのかを家族に話をすることができない人は、自分自身の「働く」「暮らす」「学ぶ」という「つながり」を分断させてしまっている可能性が高い。
「つながり」を分断させてしまうと、気づかぬうちに、自分らしさを活かして生きる歩み方を間違えてしまう。
とても「あたりまえ」のことこそ見落としやすい。
そして「あたりまえ」のことこそ伝わりにくい。
 
次世代に「あたりまえ」のことをしっかり見据えて歩んでもらうためにも、道徳的な精神論ではなく、生活に密着したアプローチで「つながりの構造」から考えてみよう。

『未来に期待したくなるジブンスイッチ』P25より

要するにこの本でも書いたように、企業不祥事がなくならない因果関係は、ココにあるのではないかということだ。

つまり、原因は「組織上層部の姿勢」や「組織体質の問題」だけではなく、社会全体における「働き」に対する認識の問題が根底にあるのではないかということを問いかけている。

お金を稼ぐことだけが「人の働き」の目的となるならば、それは産業革命時代の労働者の意識からは何も進歩していなばかりではなく「キレイゴトだけでは生きていけない」ということが正当化されかねない。

「何のために働くのか」「誰のために働くのか」…どちらの応えも「自分と家族のため」という答えしか出てこない身勝手な人が蔓延る社会では、物心両面が幸せになる経済循環は実現するわけがないからだ。

登壇時のスライド②

「人の働き」の本質は、人に認められる価値を創ることであり、その価値とは、誰かの未来の幸せを創り出すことにほかならない。
日頃「価格競争に巻き込まれない体質」「育てるよりも育つ土壌づくり」の仕事をしている立場の持論ながら、個人的には常々それを断言している。

一人ひとりの働き手が、自分の働きが顧客の未来の幸せにどうつながるのかということが無関心ならば、刹那的で世知辛い社会にしかならない。

顧客の未来の幸せにどうつながっているのかには無関心ならば、組織の空気に染まっていったり、日々のノルマ達成に忙殺されて作業をこなしているだけなら「人の働き」の本質は薄らいでいく一方となるからだ。

登壇時のスライド③


ありがとうの循環が経済の本質

経済の本質を考えてみる

経済は、中国古典の経世済民「世を経めて(治めて)民の苦しみを済う(救う)」という言葉が語源とされている。

しかし、経済は「お金を得ること」という風潮がいつまでも蔓延しているのは、先に述べた「人の働き」の本質が揺らいでいる証拠ではないだろうか。

社会を形成する一人ひとりが、相互の苦しみを救うどころか、気づけば人よりも良い暮らしをするために「少しでも多くお金を稼ぐ」ことのみが働きの目的となる傾向が強い。

そこには、経済は「ありがとうの循環」でできているという、至極あたりまえの本質的なことが崩れたままである。

そして、なぜか義務教育では経済の本質的な構造を教わる機会がない。
周りの大人達は「ありがとうの循環」という基本構造を教えないまま、次世代を担う子供達に何を学ばそうとしているのだろう。

一方「お金」の教育は、少しずつ巷で増えてきた。
しかし、社会での人のつながりにおける「信用」と「信頼」の帳簿代わりとして「お金」が存在しているに過ぎないという根本は学んでいるだろうか。

自分にできる「あたりまえ」のことと、人にやってもらって「ありがたい」と感じることの「価値の交換」が、経済の本質…つまり経世済民であるという思考が欠落しているのが今の社会の実情だろう。

お金は「ありがとうの循環」のツールとして存在しているに過ぎず、お金そのものを殖やすことばかりを学んでも「ありがとう」は全く循環しない。

登壇時のスライド④

経世済民を目指して「ありがとう」が循環する経済の中心には「生活者の心」がなければならないが、現状の経済の中心には「資本家」「お金」ばかりが君臨している。

そうなると「お金」は、利益の最適化ばかりを追求する亡者のところに滞留するため、循環が滞る。
よく言う「金は天下の回りもの」にはならず、金と共に権力を得る者が配下の者を手懐ける「金で天下の回し者」も生み出しているのが、組織ぐるみの企業不祥事の姿そのものではないだろうか。

そうした中で「お金の殖やし方」ばかりを学んでいては、経世済民には程遠い社会が続くばかりだ。

求められる働き手の主体性

ここで「顧客の未来の幸せを創り出す」という「働きの本質」を理解していくべきなのは誰なのかということが重要になってくる。
つまり、働き手の自覚の問題だ。

一人ひとりの生活者は、価値の使用者として「消費者」の立場でもあるが、価値の創造者としての「働き手(価値の生産者)」という立場でもある。

その「働き」では「自分はどこにいるどんな人達にどのような幸せを築くために働きたいのか」という「主体性」が求められることになる。

その一人ひとり違う感性を活かして個々の主体性を育み、価値創造のために能動的に学ぶ姿勢を楽しむことが「人生の学び」であるはずだ。

しかし、今のこの国の教育環境は「組織に従順で効率よく成果を挙げる者」の養成所になっているといっても過言ではない。

周りの人間が理解できないことでも自らやりたい!…やってみてから自分で意味を見出そうとする「主体性」は、就学前のこども園などでは認めてくれるものの、就学後の集団教育では個の「主体性」の発育は薄らいでいく。

それに加えて、先に述べた「経済の本質」を幼少期から感じさせないままの「歪んだ経済での優等生を輩出する」ような教育環境である。
教育現場の全てがそうではない、今の教育環境ではマズいとして行動を起こしている方も増えてきたが、残念ながら未だに大半がそうなっている。

そうしたことも含めた社会全体の「体制」の歪みも、企業の不祥事が後を絶たない根本的原因であるという仮説が確信的なもののように感じるのだ。

参考:主体性と自主性の違い


雇用の双方に求められること

就職をすると、契約形態が「雇用契約」となるため、どうしても雇用主と被雇用者の間には「上下関係」は生まれやすい。
また就職前も採用基準は雇用者側に全て委ねられるため、どうしても働き手は弱者の立ち位置となりやすい。

雇用する側は、もちろん働き手を選別できる。
一方で働き手も、雇用先(勤め先)を選別しても良いのである。
子どもは親を選べないが、働き手は勤め先を選ぶことはできる。

自分自身はどのように自分らしさを活かしてどういう人達を喜んでもらうための価値づくりをしたいのか…その「主体性」がハッキリしている働き手なら、勤め先をしっかりと見定めても良いのだ。

経営者が明確に「私たちは、どこにいる誰に期待される価値を創り出して、どのような幸せを提供する」というビジョンを示し、働き手が持つ主体性と同じベクトルを向いているならば、良いご縁ではないだろうか。

働き手と雇用主の双方が、未来に向けた主体性が同じベクトルを向くと企業業と従業員の立ち位置は、ある種の「対等性」に近くなっていく。
その価値づくりは、おそらく楽なことは一つもないだろうが、本気で楽しめる歩みになるだろう。

理屈の上ではそうなるのだが、なぜそれがなかなか実現しないかというと、二つの側面がある。

雇用主の実態

企業規模が大きくなるにつれ、組織を存続させることのみが目的となる傾向が強くなり、掲げていたビジョン実現の意識が薄れて行きやすいという点。

つまり、経営理念やビジョンは形骸化していき、社員のみならず取締役の誰に聴いても「自分達は顧客の未来にどんな幸せを築く何屋さんなのか」ということに対する回答がバラバラとなり、第三者の心にも全く響かなくなる。

中には「社内広報」がとても有機的で誰が答えても理解共感したくなる会社もある。
しかし「社内広報」がない、あったとしても無機質で形骸化している会社では、働き手と「対等」な関係性で、一緒に顧客の幸せを築いていこうという姿は実現できない。

もちろん、これは企業規模に関係なく、中小・零細企業でも同じことだ。

働き手の実態

誰でも幼少の頃にはあった好奇心や探究心が、就学以降は「主体性」が封印されがちとなるため「自分は一体何をしたいのか?」ということすら無関心となる傾向がある点。

やりたいことがなければ、組織が求める「やるべきこと」を正確に早く仕上げることで高い評価を得るばかりとなり、顧客よりも上司や組織の上層部の顔色のみを窺うようになる。

そんなことは無いと多くの大人達が嘲笑するが、過去ボク自身がワークショップを担った先で出会った小中学生、高校生や大学生までもが「大人になって働くというのは、辛いことを我慢して上司からお金を恵んでもらうこと」というイメージを持っているのが実態である。

そして「いつまでも人に迎合するのではなく、早く出世して人を使う立場にのし上がる」という野望も、肩書きがモノを言う社会なので、世間でいうところの「仕事ができる人」の出来上がりだ。

どこに主体性が求められるのか

雇用主と働き手にそうした実態がある限り「顧客の未来にこういう幸せを築き上げたい」という同じベクトルを向いて、対等に価値づくりに邁進する姿は、到底実現しない。

出世すれば…上層部に成れば…「権力」が手に入るという勘違いもする。
組織にとっての「利益の最適化」に邁進するならば、それは単なるマネーゲームに過ぎない。

「顧客にこういう幸せ!」という価値を高めようとする美しい姿勢を感じられるところでは、飽くなき挑みを続けるイノベーション意識も薄まらない

また、そういう組織構成員ならば、上層部に立つほど「権限」を手にして、さらに顧客の未来を想い描いて挑み続ける。

つまり「権力」には「金」の匂いしかしないが、「権限」には「責任」と価値づくりを高めようとする「心意気」がなくてはならないということだ。

したがって、組織上層部にも、働き手にも「自分達は(自分は)一体何がしたいのか」という主体性が常に問われるのだ。

この「主体性」を確認し合うのが「社内広報」の本質である。

登壇時のスライド⑤


できることからやる

こうした持論は、長年さまざまな現場で展開してきた。

「価格競争に巻き込まれない事業体質」
「人を育てるのではなく育つ土壌づくり」

依頼先でこうした空気づくり(文化形成をデザインすること)をなりわいとする立場で「社内広報」「管理会計」「デザイン監修」を掛け合わせて、さまざまな規模と業種の事業者に関わる上で、この持論は不可欠だからだ。

組織運営側(法人)にも、働き手(個人)にも、それぞれの「主体性」を問い続ける仕事である。

そして、昨年『未来に期待したくなるジブンスイッチ』を出版してからは、そうした職場のみならず、子育て世代の親御さんの集まりや、これから社会に出る就職活動前の学生さん達に向けた登壇が増えた。

どの場面でも、精神論で説き伏せることは自身の信条に反する。

一人ひとり違う感性と知性の結集が、あらゆる価値づくりの土台となっていることを図解で説明している。

登壇時のスライド⑥

もちろん、この図解も著書には示しているが、登壇機会が増えるにつれ実感していることは「リアルに会って話す」ことの伝達力である。

時に事例を交え、時に参加者の表情を見ながらネタも変え、時に場が和むようなジョークも交えることで、聴講者の表情が変わっていく。
やはり、何事もライブというのは良いものだ。

全ての人とは言わないが、構造を理解するとその日からものの見方や関心事が変わっていくことも、聴講者の振り返りの感想を読んで実感している。
著書も、そうした登壇先での聴講者の振り返り用として買われることが増えてきた。

今後も「人の働きの本質を図解を用いて問う」という登壇依頼は、積極的に受けて行こうと思う。
「この話はうちの両親にも聴いてもらいたい」「我が子が拝聴した講演内容が気になり本を購入したい」という双方向の反応にも勇気をもらっている。

所詮、大阪の西のはずれに住む者ができることはそれくらいだ。
この国の未来を変えてやろうなどとは微塵も思わないが、できることからやるだけのことはやろうと思う。
いつまでもわが子や次世代を担う若者たちに、我々が造り上げてしまった「主体性なき経済」という同じ轍を踏ませたくないからだ。

もちろんこの記述は、不祥事を起こしている企業に勤めている被雇用者や、その企業の商品やサービスのユーザーに対して「企業を見る目がない」というような主旨で愚弄するものではない。

企業特有の問題に留めず、社会全体のあらゆる場面での体制を再考しなければならない。
そこに関心を持つ人を殖やすのが重要だということだ。

「自分を活かして生きる者…つまり主体的な生活者」を草の根から増殖させる体制づくりから目を背けると、今後も企業不祥事は後を絶たないということを言いたい記述である。

「個別の組織特有の責任」で終わらせてしまう本質は「部活でのパワハラ」「政治家の裏金工作」などが後を絶たない因果関係と酷似している。

参考:部活でのパワハラの本質的原因

参考:競争社会は子供も大人も疲弊する

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

参考:著書『未来に期待したくなるジブンスイッチ』販売サイト

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