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この国の常識を疑ってみる散文

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物事の捉え方や、言葉の意味を自分なりに掘り下げてみると、自分の思い込みだったことだけでなく、多くのオトナが誤解していたり、歪んだ常識に無関心になっていることに気づく。
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#経済はありがとうの循環でできている

生活者が未来の社会を創る

「業界の常識は世間の非常識」ということは多々ある。 しかし、それも長く続きすぎると、世間(つまり生活者)の感性が鈍り、非常識なことばかりが浸透してしまう社会になりかねない。 そのため、業界都合のレールに顧客を誘うのではなく、生活者のそれぞれに「主体性の解放」を促しながら、個々の暮らしに合せた価値ある衣食住の提案をしていく価値づくりであること…コレを、自分がお仕事を引き受ける上でのポリシーにしている。 なぜなら「オンリーワン」という概念は、個々の生活者が幸せに生き抜くために

勉強が嫌いな中学生との対話

この春に社会に出る高校三年生から「勉強嫌いな中学一年生の弟のことで相談したい」と、次のような連絡があった。 この連絡から、実際に彼らに会った時のことを、概要だけでもnoteにしたためておくことにした。 アドバイスではなく対話とてもユニークな活動を続けていた三兄弟(今は四兄弟)だったため、彼らとは約7年前(2017年3月)にトークライブもやったことがある。 幼稚園通いだったその当時の末っ子は、今は中学生なのか! 頼りにされた以上は、責任をもって久しぶりの再会としたい。 そ

企業不祥事がなくならない理由

偽装表記、不正会計、不正検査…こうした組織ぐるみの不祥事がいつまでも後を絶たない。 個人的な横領や不正とは違い、組織ぐるみという罪深き点は社会的な影響も大きく「正直者が馬鹿を見る」という諦めムードも漂わせてしまうことだ。 もちろん、こうしたことが続くと結果として脅かされているのは、一人ひとりの生活者と将来ある子供達の「安全な暮らし」であることは間違いない。 それでも、こうした組織ぐるみの不祥事は、何十年も無くならず「組織上層部の姿勢」や「組織体質の問題」であることが原因と

教育改革を発育変革へ

今回は、上記の言葉で終えた前回のコラムの続きとして、小学校からの科目設定を「国語・算数・理科・社会」から「衣・食・住・遊・働」に変革させることの意味とメリットを綴ることにする。 なお、草の根の活動で身近なところから実現させることを決めてはいるが、現時点では個人的妄想の範疇から出るものではないため、重箱の隅を楊枝でほじくるようなご指摘はご遠慮いただけると幸いである…^^; 義務教育の本質そもそも、何のために人は学び続けるのか? 家庭でも学校でも、一般的には人が学ぶ「目的」

ロックな教育改革

インディーズ・レーベル(自費出版)で出した『未来に期待したくなるジブンスイッチ』という本は、こうした言葉から始まる。 著書では、働き・暮らし・子育てのつながり、他者とのつながり、自分の未来とのつながり…この三つのつながりの「がんばり方」を間違えないための「構造」を体系的に説いたが、著書内では端折っていた提言がある。 学校教育での「国語・算数・理科・社会・(英語)」の廃止だ。 廃止しても、いわゆる「読み書きそろばん」の類は、違うカタチでもしっかりと身に付くものにする。 い

つなぐ つなげる つながる

手をつなぐ 手をつなげる 手がつながる これ…表現次第では、シチュエーションが大きく違ってくる。 「手をつなぐ」 本来切り離れるものではないことが、何かしらの事情で離れている時にひと続きにするもの。 人の絆や家族関係みたいなものか。 「手をつなげる」 はじめは別々のところにあったが、ひと続きとなったほうが良いと意思決定したもの。 恋愛関係やチームづくりだったりみたいなものか。 ケンカの仲裁なんかもそうかもしれない。 「手がつながる」 これは自分の意思とは別に、切

均質化社会から自分を解き放つと次世代を育む土壌づくりとなる

1.芯はしっかりしてる彼の「主体性」 先日、もうすぐ社会に出る一人の学生が運営するワークショップに参加しました。趣味の域を超えた彼の表現特技を、実際に体感できるワーク内容に関心があったからです。(そのワーク内容の詳細は端折ります) ワーク参加後に認識したのですが、その学生さんのお母さんの表現を借りると、彼は「適応障害も起こして不登校になったHSP」だそうです。 HSP(Highly Sensitive Person)は、生まれつき感受性が強くて人一倍敏感な気質のある人で

醜いアヒルの子なんて言わなくてイイ

童話タイトル自体がまあまあ酷自分は持ち合わせていない異質なモノを、他の人にはあると初めて認識した時…抵抗なく受け入れていれば、その先も理性が働くようになる。 ところが、初めてそれを認識した時に、心身に何かしらの苦痛があると、その先には違和感というよりも、嫌悪感に近い苦痛なものが働いてしまう。 そして、その時の苦痛というのは、自発的な感覚のものよりも、周りの人達のエゴと先入観に染められてしまう影響が大きいこともある。 そう考えると… 童話の「醜いアヒルの子」というのは…

子供達の主体性を育む土壌を奪う大人達

「自主的」に動く大人。 「主体的」に動く大人。 「その言葉の違いなど、どうでもいい」と言われがちだが…この二つの言葉の違いは、どうでも良いことではない。 能動的姿勢としては似ているが、何に対しての動機付けなのかが全くが違うからだ。 もちろん、それも大切なことだ。 だから、全く否定はしない。 一方で… 「やってみるからこそ、その先のことは見えてくるものがあるし、やったことの先の意味は自分で見出す」という気構えでもある。 そのため、周りからの満足や賞賛を得たいのではなく、

「競争」の美徳化は子供も大人も疲弊させる ≪前編≫

結論:「競争」の濫用を無くす前編と後編に分けた長文コラムとなるため、先に結論を述べます。 子供教育、学校の部活動、家庭、社会人の職場でも、あらゆる場面で… 「競争」という言葉は、無闇に使わないことをお勧めします。 こう提唱すると、多くの人が持つ「常識」に一石を投じるものとなるのか、なかなかの物議を醸し出すようです。 一つの話題としての対話になるどころか、「競争に勝てない負け犬の遠吠えだろう」と一蹴されることも、何度も経験しています。  それでも、次世代の子供達のためにも、

「競争」の美徳化は子供も大人も疲弊させる ≪後編≫

■競争心理は遊びの中で充分イギリスの哲学者、バートランド・ラッセルは、「競争心理」は、誰もが幼少の頃から自然と「遊びを通じての本能的欲求」の一つとして持っているものと示しました。 そう…周りから競争心を掻き立てる必要などなく、「競争心理」というのは、そもそも人間の本能的欲求に存在しているものだそうです。 つまり、幼少時期にある「筋肉を動かす自由、運動の自由、騒ぐ自由、仲間をつくる自由、意識を自由にする自由」においての、自らの成長過程での「遊びを通じての本能的欲求」なんです