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作曲と作詞の力学【エッセイ・2023年4月】


今、新しい曲に入れる歌詞を書いている。

歌詞の書き方には人それぞれ様々なパターンがあると思うけれど、僕の場合は

①明るいメロディ×明るい歌詞
②明るいメロディ×暗い歌詞
③暗いメロディ×明るい歌詞
④暗いメロディ×暗いメロディ

大まかに言うと、4つの組み合わせでその曲の力学を決めている。



メロディと言葉の関係で言うと、実はメロディのほうが解釈や意味を限定してしまうような感覚がある。

たとえば言葉をカンタンに「明るい」とか「暗い」とか定義することは難しい。上に書いた分類では便宜上「明るい歌詞」と表現したけれど、本当は「前向きな歌詞」とか「肯定的な歌詞」などの形容詞のほうが適切だと思う。

“すべて失った 僕には何もない”

という歌詞があったとして、もちろんこれを詞(ことば)の通りにネガティブなものと解釈することも出来るけれど、捉えようによっては「何もないからゼロからまた頑張っていこうぜ」の応援メッセージにも捉えることができるからだ。



一方、メロディはもっとずっと単純な世界だ。

ラシドレミファソラの短調(マイナー調 / 暗い曲調)なのか
ラシド#レミファ#ソ#ラの長調(メジャー調 / 明るい曲調)なのか

その違いしかないからだ。

もちろん、どんなコード(和音)に乗せるかによって響き方も変わるし、そもそも短調は暗くて長調は明るいと感じるのも人間の感覚の話なので絶対的な基準ではないのだけれど、それでもメロディは言葉のように「このメロディは捉えようによっては短調の形をした長調だ!」なんてことは起こらない。この短調のメロディが自分には明るく聴こえる、ということはあり得ても、この短調は自分にとっては長調であるということにはならない。

だから言葉よりも音楽のほうが狭い世界の表現だと感じることがある。


さて、ここで冒頭に紹介したパターンの話に戻ると、メロディと言葉はその組み合わせによって働く力の大きさが随分変化するところがある。

①明るいメロディ×明るい歌詞
②明るいメロディ×暗い歌詞
③暗いメロディ×明るい歌詞
④暗いメロディ×暗いメロディ

①や④のようにメロディと言葉が同じ方向を向いているときは強い推進力が生まれる。ただひたすらに明るいor暗い曲になる傾向があり、いずれにしても力強い曲に仕上がる。だからメッセージとしても強いものを乗せたほうがわかりやすい。

①の例は、アニメONE PIECE初代オープニングの「ウィーアー!」
④の例は、かぐや姫の「神田川」
など。

明るい曲に明るい歌詞を、暗い曲に暗い歌詞を乗せたいけれどいまいちパンチがないというような場合は、言葉が弱いことが多いので、曲と釣り合うまで言葉を強くしていくことになる。



そう単純に進まないのが②や③のパターンで、なおかつ作られる曲はこっちのパターンのほうが圧倒的に多い。

これは個人的な好みの話だけれど、僕は前向きな曲を作るときに前向きな言葉をあまり使わなくて、暗くて悲しい言葉を並べつつその中にも救いがあるみたいな表現をすることが好きだ。もともとがドーンと構えて黙って俺についてこいなタイプではないので、そういった性格も影響していると思う。辛いことや苦しいことは、吹き飛ばして無かったことにしてしまうよりも、寄り添って共感することで癒えたらいいと思うタイプだ。だから自然と、選ぶ言葉も暗いものが多くなる。

その暗い言葉えらびがいつも難しい。これ以上言うと強すぎて、本来の目的である「寄り添って傷を癒す」どころか傷口に塩を塗ってしまう。ところが塩を塗ることを恐れて甘い配球をすると、今度は弱くて届かない。私のことなんてどうせ誰もわかってくれないよ的な事態を引き起こしかねない。うまいことパシッと決まる言葉を見つけるのにいつも時間がかかる。


考え方としては、多すぎるものは削って調整できるから仮歌詞の段階では強めな言葉を選ぶことが多い。弱すぎたり足りていないものにあとから付け足すことができないからだ。そこでいつも、曲に対してアンバランスなほど強い言葉を並べて仮歌詞をつくる。本当は言葉通りの意味じゃなくてこういう意図で届けたくて書いてるんだけどまだ仮だから強い言葉になってるわ!すまん!と思いながら、注釈をつけたいと思いながら、書いている。

清書までの間にその辺のバリは粗方とれるけれど、それでも完成した歌詞に対しても同じことを思う。本当にこの言葉で良かっただろうか、誤解されることはないだろうか、その誤解が人を傷つけていないかと、不安はいつまでたってもなくなることがない。本当なら聴いてくれた人のところに行ってひとりひとり解説をしたいくらいだ。そんな野暮なこともそうないけれど。



今書いている歌詞は仮歌詞の段階で、強い言葉がいっぱい並べてある状態だ。だからちぐはぐな感じがするし、こんなつもりじゃなかった的な仕上がりになっている。人の声が入るとどんな雰囲気の曲になるのかを見るために仮歌詞を書くからそういった意味ではどんな仮歌詞でも構わないのだけれど、それでも違和感がある。チャーハン作ってたのに味見したらオムライスになりかけてるというような。



いつの頃からか、テレビやイベントが注釈ばかりになってつまらなくなってしまった。スタッフが美味しくいただきました、専門家の指導のもと安全に配慮して撮影しています、権利者の許可を得て特別に撮影させていただいております、etc。エイプリルフールにしたって同じだ。「これはエイプリルフール企画です」と書いてあるイベントを見て驚いた。コンプライアンス時代を揶揄する冗談だろうと思ったが、どうやら真剣に書かれた注釈だった。エイプリルフールのイベントは、嘘か本当かギリギリで分かってもらえる企画を立てるからこそ面白いのでは?と思うと、狐につままれたようなというか、何とも言えない気分になる。


こうした注釈が生まれるのは視聴者や客側に原因があると思っていて、コンプライアンスが厳しくなったのは客のリテラシーが低下したからであると指摘する議論はよく見聞きするものだ。

たしかに自分が客の立場であるときにはその意見に概ね賛成であるものの、逆にクリエイターの立場でいるとき、ギリギリやスレスレの表現を選べないのはリスナーのせいですなんて言ってる場合じゃないから、つべこべ言わずにもっと言葉を磨こうと思い直したそんな4月1日です。


このマガジン「弦人茫洋」は、毎月一日に「長文であること」をテーマにして書いているエッセイです。あえて音楽以外の話題に触れることが多いです。バックナンバーはこちらからお読みいただけます。

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