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思い切って生きてみる


庭のモミジが少しずつ紅く染まってきていて、秋の気配を背後に感じる今日この頃です。

金と紅のメッシュは先週よりも紅の割合が増したような感じがします。

雲はまだ夏の雲だけどね。



田舎とか、自然とか、季節の移り変わりとか、若いころはそういうのに全くと言っていいほど興味がなかった。

花見はただの飲み会としか思ってなかったから、なぜ飲み会をわざわざ屋外でやるのか意味不明だった。

どうせ屋外で痛飲するならオクトーバーフェストとかのほうが好きだった。


オクフェスは好きな人とかと一緒に行って、自分のペースでだらだら飲める一方で

花見は、参加するからには、そりゃ多少は桜について何かしらアクションをとらないと据わりが悪い。

まだいまひとつ満開じゃないですねとか。いやいや咲きそうで咲かないこの七分咲きの時期を眺めるのが風流なんだよと上司。へええそうなんですねえべんきょうになりますねえとか言いながら日本酒を胃に流し込むなどは人類が考えうる中でも最も酒をまずく飲む方法だと思っていた。


花見は今でも好きじゃない(というか、みずからすすんで開催しようとかは思わない)が、桜に抱く興味の度合いは昔と比べたら多くなったような気がしないでもない。

それは桜だけに対するものではなくてそもそも自然に向ける興味が強くなっていて、春なら桜を眺めるし、今は夏と秋との境目だからモミジを見てるんでしょうね。


盆に家族で花火をやった。小学校の初期以来くらい久しぶりに。

その時間を愛おしく感じたのは若いころと変わったことかもしれない。

夏だから花火をするし、それはその時にしかできないことで、確かに冬でもアマゾンとかで買えば「花火に火を灯けてそれを眺める」という行為自体はできるが、それは単純に火薬が燃えていく様を観察するという現象でしかなくて、「花火をやってる」ことには、ならないんだよね。

その時にしかできないことを、その時が来たからやる、というのは、時間を大切にするということで、時間を大切にするということは命を大切にするということとほぼ同じ意味だと思う。



人混みも若いころは嫌いだったなあ。それこそ花火大会なんか絶対に行きたくなかったし、彼女にディズニーランド行こうなんて言われた日にゃ頼むからどうか勘弁してくださいって思ってた。今でも人混みを好きになったわけじゃない(というか人混みを好きな人って多分いない)けど。


でも。

冷房の効いた部屋からわざわざ出て人混みの海に繰り出していって1時間近く空を見上げて首が痛くなるなんてのは、やっぱりその時にしかできないことで、その時にしか出来ないからこそ意味がある。

付き合ってまだ日が浅いから乗り物の待ち時間に話す話題が枯渇して気まずくなって焦るとかも、やっぱり、その時にしかできないことで、せっかく付き合ってるならベタに恋人っぽいことをするというのは重要なことだと思ったりもします。


そういう生き方は、時間や命と正面から向き合っている感じがして、若いころは自分自身がそもそも斜に構えていたから、物事と正対することに照れたり戸惑ったりしていたのかもしれない。

斜に構えたまま生きていくと人生の軸が捩れ続けていくことに途中で気が付くもので、だからこそ人は歳をとったら慌てて軌道修正する場面も少なくないのかもしれない、とも。


30歳やそこらで歳がどうのと宣うのはまだ早い気もするが、2023のリアルなオレは、VIVANTて何が面白いの?とかスカしながら庭のモミジを眺めてセンチメンタルになったりしています。



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