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”作曲師”という呼称について【弦人茫洋・10月号】

このマガジン「弦人茫洋」は、毎月一日に「長文であること」をテーマにして書いているエッセイです。あえて音楽以外の話題に触れることが多いです。バックナンバーはこちらからお読みいただけます。


界隈では「作詞師」、「作曲師」という言葉がちらほら使われ始めているらしい。作詞や作曲に限らず、絵師、ミックス師、動画師など、「○○師」と表現されるクリエイターは少なくなく、むしろそっちのほうが多く感じられるくらいだ。

個人的に「○○師」という呼称を使うことはまず基本的にあり得なく、画家、イラストレーター、ミキサー、編集者、などと呼んでいる。僕は形よりは中身を重視するタイプなので、呼称の変化そのものは、正直なところどうでもいい。

とはいうものの、作詞師だの作曲師だのという言葉は生まれてこの方聞いたことが無く、はじめて目に耳にするぶん、違和感はある。

作詞家、作曲家、でしょう、と。

何がどう違うのか考えた。



広辞苑によると

「家(か)」
・その道の人。また、その道にすぐれた人。

「師(し)」
・専門の技術を職業とする者(医師、美容師など)。
・僧侶や講談師などの名に添える敬称。

ということらしいが、いまいちピンとこない。

ネットで画家と絵師の違いを調べたところ、作品が芸術的かそうでないかの違いであるというようなことが書いてあった。

芸術的かどうかを決めるのはお客さんなのでこれもイマイチピンとこない。仮に、絵師の作品を芸術的でないとするなら、そんな失礼な呼び方が市民権を得るのはあまりにも悲しい気がするので、やはりどことなく腑に落ちない。

ちなみにミキサーとミックス師、作詞家と作詞師の違いは調べても出てこなかった。おそらくは絵師から派生した表現なのだろうし、調べても出てこないということはそんなこと気にしている人は居ないってことだ。

プレイヤーを演奏家と呼ぶ場合、近い将来ギタリストも演奏師とかギター師とか呼ばれるのだろうか。

文化が変わっていくことに不安や焦りを覚えている時点で、自分の中で何かが衰えている証なのかもしれない。自分が憧れたのは「ギター師」ではなくて「ギタリスト」だし、「作曲師」ではなくて「作曲家」だ。それは間違いないしそこに拘るのもひとつだけれども、当時の自分にとっての「ギタリスト」という言葉と、現代におけるギター師という言葉と、意味するものが同じなら、どう呼ばれようと別に構わないかという気も、する。



似たような話で、ミックスとマスタリングの定義が世代によって異なるというのを聞いた事がある。これは、認識の齟齬が生じると仕事の内容に関わるので、どうでもいいやって放っとくわけにはいかない。こちらがミックスと呼んでいるものをマスタリングと認識されたり、逆に向こうがミックスと呼んでいるものはこちらにとってラフだったりすると、えっ、そこまでやってくれるの?とか、逆に、えっ、それだけしかやってくれないの?という行き違いから悲劇が起こる。特にネットのやりとりだと、完成した結果しか見えなくなりがちなので、ミックスを依頼したはずが返ってきたものがラフだったりするとその結果だけを見てやっぱり怒っちゃう。もつ鍋を頼んだのに、もつをお湯に浸けただけの鍋が出てきたら怒るでしょう、そんな感じ。

ちなみに個人的な防止策としては、作業内容を予め伝えるようにしている。ただ「ミックス」と言うのでなく、具体的に何をするから納期はこれだけ必要、というような。お互い知った仲ならそんな必要もないけど、そういう案件ばかりではないので。


作曲師という言葉が生まれたり、ミックスという言葉の定義が広くなったのは、それだけ音楽が身近になったというポジティブな話だと、基本的には考えるようにしている。そこに好き嫌いはあれど、そういった変化をネガティブに捉えてしまうと老害街道まっしぐらだし、それは御免だから。誰でも簡単に音楽が作れる時代というと聞こえはいいのだけど、逆に言うと音楽を「作ることが当たり前」になった世の中でそれをどうやって売っていくかという難題も同時に生まれている。




少し話の軸が変わるが、川本真琴さんがサブスクを批判して話題になったことがある。サブスクが生まれたことによって曲単価が下がり音楽家の収入が減ったという趣旨を、「サブスクというシステムを考えた人は地獄に堕ちてほしい」とツイートして炎上した(当該ツイートは削除済)。

音楽を作る側の立場からすれば、わざわざ説明されなくてもその趣旨は伝わったしそれが現実だと思う。一方音楽を聴く側の立場からすれば、日々快適に利用しているサブスクを「地獄」というキツい表現で批判されたら良い気持ちはしないというのも理解できる。そういった意味で考えると、川本さんの発言が炎上する世の中はまだ、音楽を「作ることが当たり前」という段階までは進んでいないのかもしれない。

川本さんはのちに「サブスクを否定しているわけではない」とフォローしたが、弁明としては正直苦しいものに感じた。どちらかというと、何かを否定することが悪というよりは、何かを否定している人を圧殺する同調圧力みたいなもののほうがよっぽど恐ろしく感じられる。個人的にも、文章で何かに触れる際はできるだけ中庸を守ること(=不用意に誰かを傷つけたりしないこと)を大事にしているけれど、川本さんのサブスク騒動を見ていたら、自分の立場を明確にすることは、そうではない立場の人を否定することと同義ではないよなと感じたりもした。卑近な例で言うと、僕はアボカドが大嫌いだけれどだからといってアボカド好きな人々を否定していないしアボカド自身をも否定していない。オレは好きじゃねえから食わねえっていう、それだけ。



クリエイト界隈でもう一つ感じるのは、クリエイターとお客さんの間で相場感覚にかなり差があること。これも少し前の話だけれど、絵の依頼をされたイラストレーターさんがいて、値下げ交渉に応じなかった結果、悪態をつかれて悲しい想いをしたらしい。依頼する側は良くも悪くも軽い気持ちだったのだろうけれど、そのイラストレーターさんが有償で受注している時点で、そこはその人のルールに従うべきだった。

この手の問題は他の業界、たとえば飲食業などをイメージしてもらえるとわかりやすい。1000円のラーメンを食べたいけれど手持ちが500円しかなかったら、200円のカップラーメンで我慢するでしょう。大将に、500円に負けてくれとは言わないでしょう。作品に対しても同じことなのだけど、同じ土俵で考えられる人が少ないのは、クリエイトが大衆化したことの弊害のうちのひとつだとは思う。

値下げ交渉や無償提供というのは、基本的に提供側に何らかのメリットがあって初めて成立する。一方的に値下げや無償を要求するのは、交渉ではなくてただのわがままだ。他人のわがままに付き合っていられるほどクリエイターは暇じゃない。


偉そうに語っているけれど、自分も学生時代に似たような失礼をはたらいてしまった事がある。ギターを始めたいという後輩を楽器屋に連れて行ったときのこと。彼が最終的に心に決めたギターは少し予算をオーバーしていて、僕が代わりに店員さんに値下げ交渉、ではなく「値下げわがまま」をしたのだ。こいつ上京してきたばかりで手持ちがあまりないので、少しお安くしていただくことって出来たりしますか?返事はもちろんのことNG。丁寧な店員さんだったので語り口は綺麗だったけど、内心は「知らねーよ」といったところだろう。後輩の所持金が少ないこととギターの値段は、無関係なことがらだから。



自分がものづくりをする根底には上に書いたような気持ちがあるので、無償で頼むという発想がそもそもあり得ない(制作の練習に使いたいなどの理由でもともと無償で企画されているものは別)。他人に無償でお願いするということは、自分も同じ扱いを受けても文句を言えないからだ。だから価格についても相手が言わなくても必ず問い合わせる。それで払えない額だったら頼まない(というか、頼めない)だけなので。そういう哲学で生きていると、おひとよしとよく言われるが、それでもやっぱり、他人に払わず自分はもらうという生き方を僕はできないので、そこを曲げることはこれからもない。


後半で書いたようなこと、クリエイターに対してのリスペクトだとか有償無償の考え方だとかって、そうそう簡単に変わるものではなくて、そこを大事に守れている限りは、自分が作詞師と呼ばれようとギター師と呼ばれようとそこはどうでもいいよなと思ったりした。


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