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音楽をする姿勢


今日はセッション。移動の高速バスの中で書いている。

このセッションは、僕にとって音楽のいろはを教えてくれたような大切なセッション会だ。

バッキングの奥深さを教えてくれたし、そもそも音楽でコミュニケーションするとはどういうことなのか、教えてくれた。

音楽をやるうえで、人に認められるとか、すごいと思われるとか、感動させられるという要素は確かに大切なのだけど、それが第一優先になってはいけない。説得力のある演奏が出来たのだとしても、それによって人を黙らせるような音楽は、良い音楽とは言い難い。

そんなスピリットを叩き込まれた、大切な場所だ。


自己表現の手段としてギターを手に取る以上、目立つことはそれなりに大切なのだけど、自分が目立つためだけに音楽をやるのだとしたらバンドなんて必要なくて、カラオケ流しながらカバー演奏でもしてればいい。

そういうのはかえって悪目立ちする。



今よりもっと若かった頃は、残念ながら目立つことしか頭になかった。出来るだけ多く爪痕を残してこようと必死だった。自分にしか弾けないギターを弾いて、とにかくその場にいる全員の印象に残ることだけを考えていた。

そういう尖った姿勢は茨の道をこじ開けるのには役に立つけど、逆に言うとそれくらいの用途しかない。だから、尖ることは必要ではあるんだけど、常に尖ったままだと周りに人が近づいてこられない。



最近思うのはその真逆で、そもそも個性的なプレイとか自分にしか弾けないギターなんてものはないんだと思ってる。ギターの演奏には人柄が滲み出るもので、それを故意に隠したり誇張することは出来ない。

それなら、ギターを弾く姿勢として攻撃的な態度でいるのは好ましくないよねと。そんなことを考えている。



似たような話として、ライブやレコーディングの写真について、ふと思った。

レコーディングです!とか、レコ発でした!と綺麗な写真をアップするバンドマンは少なくない。

自分も昔はその筆頭みたいなもんで、頂いたデータの中から自分が映ってる写真だけをピックアップして保存し、宣伝に使ったりしていた。
レコーディングの時は、なるべくお洒落なレコーディングっぽく見える画角を探して何枚も写真を撮ったりしていた。


アーティストは自分を売り込んでいく必要があるのだからそれは当然のことだし、そういうものだと思う。




ただ最近はそれに対する考え方が変わって、やってることはこれまた真逆。

写真は自分が撮って共演者にお渡しすることのほうが多いし、カメラさんに撮って頂いた自分の写真とかもなんだか恥ずかしくてそっとSDに保存するくらい(その結果、自分が映った写真しか保存されていない「俺専用SD」が出来上がるという更に恥ずかしい結果を招いた)。レコーディングの時は、写真なんか撮ってる暇があったら演奏に集中したいという考え。今日みたいなセッションだったら、思い出は網膜にスクショしておけば十分という感じ。


そんな風に、音楽に対する姿勢が変わってきた。

音楽に対してというより、根本的なものの考え方が変わりつつあって、その延長で音楽も例外ではないといった感じか。



若いバンドのライブを見させてもらったりすると、自分も共に心が燃え上がると同時に、少しだけ羨ましく思ったりする。


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「うたスト」お礼の記事にたくさんコメント頂きまして、ありがとうございます。

まだ追いついていないのですが、近いうちにお返事に行きますね!


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