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芥川賞を読む【弦人茫洋・2月号】

このマガジン「弦人茫洋」は、毎月一日に「長文であること」をテーマにして書いているエッセイです。あえて音楽以外の話題に触れることが多いです。バックナンバーはこちらからお読みいただけます。


 先月は久しぶりに小説をたくさん読んだ。誕生日に高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』という作品をもらったのがきっかけだった。 帯を見ると、2022年上半期の芥川賞の受賞作だという。普段から賞で作品を手に取ることのない自分にしては珍しくその文言が目に留まり、過去の受賞作はどんなラインナップだったのか興味を持って調べてみたら、意外にも自分が読んだことのある作品が多かった。 それならば。芥川賞の受賞作は自分の好きな作品と傾向が似ている可能性が高いのではと推測し、芥川賞縛りで作品を掘ってみるのも面白いかもと思って1月は芥川賞受賞作だけ(あっ…キングダムの新刊も読んだから「だけ」は嘘ですね。芥川受賞作“ばかり“)を読んでいた。

 これは常日頃から思っていることなのだけれど、世の中の多くの作品は ―“「○○だからすごい」のではなく「すごいから○○」”―の構造に当てはまる。小説で言うなら、「芥川賞を受賞したからすごい」のではなく、「すごい作品だから芥川賞を受賞した」ということ。ところがここで大事なことは、そこで言う「すごい」は飽くまでも選考委員が考える「すごい」であり、僕やキミにとっての「すごい」と必ずしも一致しない。
音楽でも同じで、グラミー賞をとったからすごい。ミリオンヒットだからすごい。わけではない。グラミー受賞やミリオンヒット達成という事実そのものはすごいことかもしれないけれど、だからイコールすごい(=つまり崇め奉ることを強要されるような)作品である、ということにはならないことと似ている。自分の感性を刺激するのは作品の魅力であって、僕たちは別に賞のネームバリュー自体に感動したいわけではないから。


 そういった次第で僕は賞で作品を読むことがこれまでになかった。「芥川賞受賞作!」とデカデカ書かれている帯にも辟易する。出来れば何も知らない状態で作品を読んで、後から受賞作だと知るほうが感動の度合いもおおきい気がしてしまう。とは言いつつも、重要なのは自分がその作品を好きかどうか結局はそこなわけであって、自分がその作品を好きかどうかということとその作品が何かの賞を受賞しているかということは基本的に何の関係もないことだけれども。

 実際に芥川賞縛りで読んでみると、推測した通り確かに自分の好きな作風のタイトルが多かった。芥川賞はどのような作品に贈られる賞なのか調べたら、ざっくり純文学が対象である、とのことだった。であれば自分は純文学が好みだということが言えそうだが、ここらでついでにもう一丁ややこしいことをこだわっておくと、「僕は何らかの意図があって純文学を好んでいるわけではない。自分が好きだと思う作品は、世の中ではどうやら純文学というジャンルに分類されているようだ」というのが正確な描写なのかもしれない。


 先月は芥川賞受賞作を11作品読んだのだけれど、その11作品に共通している点として感じたのが、いずれも「生きること」や「人生」をテーマにしているということ。純文学は、それ自体がひとつのメタファー(比喩)になっている作品をそう呼ぶと定義されるらしい。そういった意味では人生をテーマにしていない小説を探すほうが難しいというくらいのものだが、比喩の体裁を用いながらもテーマが伝わるように作品を創るというのは当然のことながら並大抵のことではないわけで、その意味でやはり先月の11冊は圧倒的な読書体験だった。

つくづく自分が理屈っぽくて申し訳ないけれどもここで一つ指摘しておくと、芥川賞を受賞していることが純文学たりえる要件なのかと言うとおいおいそれはぜんぜんちがうぜとおもうわけです。実際、11冊の中には他と比べて毛色の異なる作品もあった。どちらかというと直木賞の薫りが漂っているようなものもあった。それなのに「芥川賞受賞作であるからには純文学のはずなんだ」と思い込んで妙な深読みをする姿勢は小説との付き合い方として痩せていてむなしいとおもう。何度でも書くが芥川賞に推薦したのは選考委員であって僕やキミじゃない。芥川賞ってこんなもんかと肩透かし喰らうことがあってもいいし寧ろそれがないほうが不自然なくらいだ。 こういう分類学めいた話はヤッパリ音楽にもあって、たとえばレッド・ツェッペリンをハードロックと解釈するかブルースと捉えるかは人によって異なったりする。分類する以上は定義が必要で、定義するということは物事に境界線を引くという行為であって、それ自体がそもそも自由を歌うロックのスピリッツと相反する気もするのだけれども、仮にそれを許容したとして境界線を引いたとしてもハードロックの中にブルースイズムが存在することもあればブルースと言われる音楽の中にハードロックスピリットが同居していることだってあるわけで、それならいっそ同居しているものそのまま同居させておけばいいじゃんとかいう気持ちにもなるわけです、ツェッペリンはハードロックでもブルースでもなくツェッペリンですとか言うとつまらない回答になってしまうから他人と議論するときにはディベートとして自分の見解を持ってもいいけど、自分の中では「どっちでもない」って回答ならそれはそのままにしておいてよいと思う。


回りくどくなり申し訳ないが文学についても同じように考えると、これは純文学なのかそうではないのかみたいなことを世間的な尺度と照らし合わせて考えることほど無粋な読み方もないのではと、個人的にはそう思うのであった。


最後に、先月読んだ11冊を紹介します。

■高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』
■村田沙耶香『コンビニ人間』
■綿矢りさ『蹴りたい背中』
■川上弘美『蛇を踏む』
■川上未映子『乳と卵』
■砂川文次『ブラックボックス』
■井戸川射子『この世の喜びよ』
■小山田浩子『穴』
■若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』
■金原ひとみ『蛇とピアス』
■西村賢太『苦役列車』


綿矢りささんや金原ひとみさん、川上未映子さんの小説は、言葉選びや世界観がスッと入ってきやすい印象があり小説を読むことに苦手意識を持っている人もある種マンガのようなイメージで読みやすいのではないかと思う。

不思議な世界に誘うかのような、浮遊感の漂う魅力を感じたのは川上弘美さん『蛇を踏む』、小山田浩子さん『穴』、村田沙耶香さん『コンビニ人間』。

救いようのない絶望感みたいなものを淡々と描いていてディストピア的な空気感が好きな人にお勧めだと思ったのは砂川文次さん『ブラックボックス』、西村賢太さん『苦役列車』。

一見すると何気ない日常なのだけれどよく考えると深くて難解だったのは、高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』、若竹千佐子さん『おらおらでひとりいぐも』。井戸川射子さん『この世の喜びよ』。


帯に辟易するような人間が書いている文章なので各作品のあらすじは割愛していますがご容赦ください。


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