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人を受け入れるということ


 美輪明宏さんの言葉で、「人間関係は腹六分目くらいがちょうどいい(大意)」というものがあるらしい。そのことを僕は父から聞いたのですが、初めて聞いたときは、どこか寂しく感じて、勝手に突き放された気分になって、なんだか残念だったことを覚えています。そんなのはドライで冷たい大人の世界の処世術であって、自分には関係ないという気持ちもあったかもしれない。
 それが最近ひっくり返って、人間関係に深入りしすぎないことはむしろ優しさであるとすら思うようになったのは我ながら不思議だし、その変化が年齢を重ねたことによるものなのかどうかは、いまいちピンとこないが、まぁ、いずれにしても今は、そう感じる。

 以前、友人に、君は人を受け入れるよね(こんな酒癖の悪いどうしようもない俺みたいなクズ人間も友達として受け入れてくれてありがとう)と言われたことがあります。その感想が意外だったから驚いたものの、正直うれしく感じる自分もいた。
 僕は「人を受け入れる」なんてことを目標に掲げて生きてきたわけではないし、誰かを“受け入れる”なんて烏滸がましいとすら思う。その一方で、自分が音楽をする根幹の目的には聴いてくれるひとに寄り添うものをつくりたいという想いがあることも事実で、受け入れることと寄り添うことがどれくらい同じかはわからないけれど、少なくとも遠い関係性ではないと思うので、どんな形であれ寄り添うということができていたなら嬉しく思いました。

 あれこれ考えていたら、友人の言う「人を受け入れる」ことは、腹六分目の人付き合いと通ずるところがあるのではという考えに至りました。基本的に深入りしない。詮索しない。放っておく。本人から何か相談事を持ちかけられたりしたらそれはきちんと話を聞くけど、こっちからわざわざ突っつくようなことはしない。彼女とうまく行ってんの?なんてこっちがわざわざ聞くことじゃない。こっちから行かないぶん心のキャパに余裕があるから受け入れ可能な人数が増えるという、そういう感じなのかも。いちいち至近距離でアツく語ってたら、酒癖の悪さにブチ切れたりすることもあるのかもしれないけど、自分の失敗は自分で何とかしてくださいっていう感じなのでそこに対してエネルギーを使いたくない。他人は他人。自分は自分。介入はめんどうくさい。

 というようなことをその友人に面と向かって話したら露骨に悲しい顔をされて失敗したと感じました。

 でも、それって失敗なのか?よくわからないです。大切な人を悲しませることは人生において少なくとも成功ではないけど、じゃあ失敗か?と言われると、疑問。友人の例で言うなら、彼が酒癖の悪さに悩んでいてそれを改善したいと相談されたのに、自分の他の用事を優先して、知らん、自分で何とかせいと突き放して悲しい顔をされたのなら、それは失敗かもしれないけど。

 自分のことを好いてくれる人を悲しませたことが失敗だと捉えるのは違和感があります。自分を好いてくれる人もいればそうでない人もいて当たり前なのに、そのバランスの変動にいちいち一喜一憂しているのは頓珍漢というか。失敗なのか疑問、というのは、そういう意味です。


 だからどうした、何か悩んでいるのかということは特になくて、上に登場してもらった友人との関係も良好です。

 ただ、そんな風に考えたことが最近ありましたという記事でした。





おまけ

人それぞれだとは思うけど、人間関係と食の好みって似ているのかもしれない。

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