日記随想:徒然草とともに 2章 ⑭

 昨日は、抽象的な話で終わってしまったが19段から20段、21段にかけて、日本の古文の伝統的な叙述は、花鳥風月という言葉が示すように、自然現象を受身的に嘆賞する表現に流れる傾向があること、たとえば、注にもあるように、西行なども”おしなべて物を思わぬ人にさえ心を付くる秋の初風”という歌を残している、とあるように、自然現象も、日々暮らしていくうえでの様々な状況や人間関係も、どちらかと言えば柔らかくうけとめ、耐え忍ぶ傾向ががあるのではないか、と思われ、この分野には一向詳しくないけれども、古来から、すべての現象は、思わなくて感じるだけでて受け止めてゆく傾向があるのかも、21段の”月見るにこそ心なぐさむ”とか”露こそ”とか”か、いやいや”風こそ”などと、これぞ和の特質ではないかしら、というのは独断に過ぎるかもしれないが、人の魂と宇宙との一帯感という最近の量子力学でよくとりあげられる考え方には馴染みやすい気もするのである。
 

 20段の”なにがしとかいひし世捨て人”という書き出しで始まる引用文の表現などは、もしかして法師自身のことかも、と思ったりするが、この世に何のつながりも持たない身であるゆえに、”ただ空の名残のみぞ惜しき”ということばの”空の名残”というのは、古歌にもしばしば見られる表現で、その意味についての解釈には諸説あるようだ。けれども、結局時間が移っていくことを誰も捉えられないことから、月日が移っていくことを愛惜する意味であろう、と解釈されているらしい。読者としては、個々に、状況に応じて別の意味に捉えてもいいのではないか、という気もする。
  

  21段は中国三体詩に収められている詩や、文選の詩、有名な竹林七賢人のことばなどを下敷きに、人として、折にふれ、月や花、風、はたまた山沢に遊んで岩に砕ける水、さらに魚鳥を見て、楽しむのがいかに快いか、その心境を、詩的な表現で、さまざまに数え上げる。
 こうして、人にとって、遠く,水草の清い所にさまよい歩くことほど、心が慰められることがあろうか。と水辺の散策や、山川への遠出をしきりにすすめて終わる。


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