読書がやめられない理由

こちらが、私が高校2年の冬に読書をするきっかけになった本。

『勝つために何をすべきか』松尾雄治著

野球部だった私は副主将だった。
しかし、おそらく部史上一番下手クソな副主将だった。

私が所属していた都立東大和高校野球部は、当時部員は100名を超える大世帯。ひとつ上の学年は夏季西東京大会で準優勝しているチームだった。

一つ上の先輩達は、主将を始めとして尊敬できる人達がたくさんいて、私は、自分と自分達の代を、常に比較対象にしては自己嫌悪に陥っていたのだ。

そんな時に、近所のほんとに小さな書店で、この本に出会ったのだ。

今思えば、神様が、そう仕向けてくれたとしか思えない。
なぜなら、それまでの私は読者感想文で本を読むくらいで、自ら本を買って読むなんて、ほぼなかったのだから。

私の記憶に間違いなければ、この本を読んだのが12月。
翌年の2月に、また運命的な本に出会うのだ。

それが、こちらだ。

司馬遼太郎さんが書いた『竜馬がゆく』である。

その日の練習は雨練で校舎内だった。いつもより早く終わると、最後のミーティングで助監督が、いきなりこんな話をした。
「吉川英治の宮本武蔵もいいけど、司馬遼太郎が書いた竜馬がゆくもいいぞ」
普段は、野球の話しかしない助監督が、唐突に我々に読書を勧めたのだ。
吉川英治も知らない私は、とうぜん司馬遼太郎なる作家は初めて聞いた。
しかし、『勝つために何をすべきか』を読んで、読書に興味を持ち始めていた私は、尊敬している助監督の勧める本を、速攻で購入したのだ。
文庫本で全8巻もの本。読み始めると、私は司馬遼太郎が描く主人公の竜馬の生きざまに夢中になった。
3学期の期末試験前に、すぐに突入したのだが、テスト勉強は手がつかず、『竜馬がゆく』を読むことに、まさに没頭した。

結局、『竜馬がゆく』は、大學時代に1度、社会人になってから1度と、計3回読破した。なにが、そんなに私を夢中にさせたのか。
ひとつには、司馬遼太郎さん独特の文体に、引き込まれたこと。
そして、もうひとつが、主人公の竜馬の生きざまに憧れたからだ。
自分とは全てが対照的な竜馬、それ以来、私は竜馬のようになりたいと、ずっと思い続けている。

『竜馬がゆく』で、私の読書は完全に習慣になる。まずは、司馬遼太郎の本を片っ端から読んだ。

20代後半で、トレーニングコーチになった私は、再び、本を読む機会が増えていった。どうしたら、指導先の選手に、響く言葉で伝えることができるのか。どうしたら、やる気のない選手の心に火をつけることができるのか。
どうしたら、強いチームを作ることができるのか。
そのヒントを本に求めた。

そんな時、内田樹さんの本に出会うのだ。
これまた、偶然のように近くの本屋で手にとり、それ以来、私は内田樹さんんの本を読みまくるのだ。

内田さんからは、
教育とは何か? 
指導者とは何か?
学ぶとは何か?
そして大人と何か?

と、指導者として、特に学生に関わる指導者として、とても大切なことを学ぶことができた。
いや、今でも学び続けている。
内田さんの言葉で特に好きなものを一つだけ紹介する。

必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るのか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。
学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。
古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。
自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、自分自身を含むシステムの全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが必要である。自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。マッピングができないということは、主体性が持てないということである。
というのは、マッピングというのは、「自分がいる場所」、つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。
学術研究論文がまず先行研究批判からはじまるのは、「自分の位置を知る」ことが、おのれの「オリジナリティ」「唯一性」を知るためのたった一つの方法だからである。
 主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。そのためにはマッピングが不可欠である。そして、マッピングのための問いとは「私はどこにいるのか?」「私は何ものであるのか?」といった実定的な問いではなく、「私はどこにいないのか?」「私は何ものでないのか?」「私は何ができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学びをしること、それが学校教育で私たちが学ぶことのほとんどすべてである。
それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。それは制度である必要も、空間的現実である必要もない。たとえば、サイバースペースはもはや十分に学校として機能している。なぜなら、そこで何かのデータを得ようとするものは、何よりもまず「自分はどのようなデータを欠いているのか」「自分はそのデータに到達するためにどのようなスキルを欠いているのか」をできるかぎり分かりやすい言葉で交信の相手に伝える必要があるからだ。自分の「欠如」や「不能」を適切に言語化する能力を人間関係に翻訳すると、それは「ディセンシー」と呼ばれる。求めているデータを待つときの忍耐と沈黙は「レスペクト」と呼ばれる。
インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。それが学校教育において習得すべき基本である、その原点に立ち戻れるならば、私たちの前にはまだ無数の可能性が開かれているように思われる。  

「おじさん」的思考 内田樹

内田樹さんの本のみならず、私にたくさんの学びを与えてくれているのが読書である。
下記も、それぞれ私に、多くのことを教えてくれている本たちだ。

最近は、本屋がつぶれているので、アマゾンで買うことの方が圧倒的に多くなった。しかし、私は本屋が大好きである。
偶然の出会いで手にとり、私の人生を変えるほどの衝撃的なことが起こるのだ。これはアマゾンでは決して味わうことができない。
私は、幸運にも、それを読書のきっかけとなる最初に経験することができたのだ。もし、『勝つために何をすべきか』に出会っていなければ、『竜馬がゆく』を読んでいたかどうか疑わしい。
もし、内田樹さんの本に出会っていなければ、指導先で迷ったときに、返る場所がなく、自分ひとりで、もっとストレスを抱えていたかもしれない。

だから、私は、これからも本屋に行こうと思う。
それは、もちろん、指導に活かすためのものだけでなく、自分の人生をより豊かにするためでもある。そんな本もたくさんあるのだ。
原田マハさんの本は、まさに私にとってそんな本達である。ただただ、読んで心温まる、涙する、感動する、至極の小説たちである。

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