「明日から聞き上手」にはなれないのはなぜか
「聞き上手」は一般的に「お人好し」と同じく、性格や態度に分類されているように思えます。
もちろん、態度も必要条件の一つです。
しかし「聞き上手」になるためには、単に心がけるだけでは遠く及ばず、高度な知力を求められることが30を過ぎてようやく身に染みてわかるようになりました。
たとえば、話好きな友人による堰を切ったようなマシンガントークを聞くときのように、こちらが何かしらの「要求」を持たない場面であれば、愛想と間のいい相槌だけで充分役目を果たすことができる気がしますが、
一方で営業活動のように、聞き手が販売に繋げようとするような「要求」を持つ場合は、これだけでは明らかに不足です。
なぜならこの場面において、「話し手」である見込客が当初から積極的に話したいわけではないからです。
そこにニコニコ近づいて相槌だけ打たれても、不気味な経典かなにか渡されそうな感じがして不審に思われるだけです。
そうなると、聞き手として”アクティブな”質問の力がモノを言います。
そのときにカギを握るものの1つとして、「相手の土俵で相撲を取る」力がある気がします。
良きコミュニケーターはこの辺のところをよく押さえていて、他者と会話をする場面では自身の思考体系を一旦破棄し、丸腰で構えているように見えます。
その上で、相手の発言の中で使われがちな言葉や文章構成を繊細に傾聴し、身につけているものや動作からも洞察していきます。
そして、得た解答を正確に繋ぎ合わせて、話し手が恐れている誤解の方向性やこだわりの在処などを推理していく。このように相手の体系に沿って考えているからこそ、話者がつい口を走らせたくなるような次なる良質な質問を繰り返すことができるのではないでしょうか。
これが果たして、相槌の妙や態度だけをもって成立するでしょうか。
良きコミュニケーターとは言い難い、凡な聞き手はおそらく、話者を饒舌にする質問ができません。
それは態度などの要素を除くと、質問それ自体がどこか「ズレ」ているからである気がします。
では、「ズレ」はどこから来るのでしょうか。
それは、そもそも「ズレ」ている自分と他者のモノの見え方の違いを過小評価していることにあります。
極端に言えば、相手にも物事が自分と同じように見えていると錯覚しているところにあるのではないでしょうか。
また、聞き手になる際には一旦、自分の知的体系を持ち出さず、相手の体系に則って聞くことも難関です。
なぜなら、人は自分が理解できることを好み、理解できないことは反射的に遠ざける性質を持つからです。
そんな中で、自分の体系に即座に収めようとする欲を克服することはいわば「無我」の境地に近い、常人ならざる精神力が求められるように思います。勇気も要ります。
僕なんかは自説を披瀝して座布団一枚取りたい煩悩まみれのどさんピンなので、聴いているターンの中で思わずカウンターパンチの繰り出し方を考えてしまっていたりするわけです。(ほな直せや)
更には、自分の口から出た発言なれば、全て自分の考えもとい、自分自身を代弁したものでなければならないという執着も、聞く態度を妨げ「ズレ」を生みます。
これが非常に出来ていると思ったのが、千原ジュニアさんです。
BSよしもとで社長にインタビューをするという番組があったのですが、千原ジュニアさんは話者のツボを押さえて質問を繰り出し、その間は彼の真骨頂である大喜利やキラーフレーズを一切封印しています。
きっと、その刀を抜くことが話者の口をつぐませることを芯から理解しているからである気がします。
その上で、なぜ大半の人がわかっていながらも出来ないのかと言えば、シンプルに抗い難い欲求であるからではないでしょうか。
そう考えてみると、noteやYouTubeで一方的に書き、話すことは捌け口としての側面もある気がしてきました。
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