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水面の私。

鏡のように澄んだ水面に映る自分の姿は、澄んだ自分である。
揺れる水面に映る自分の姿は、揺れている。
荒れた水面には自分の姿が映ることはない。
しかし、丘にいる自分の姿は水面がどんな状態であろうと変わらない。
と思っていた。今日までは。


例えばだが、大泣きした自分が鏡のように澄んだ水面に映ればそれは、
大泣きした自分が二人いることになるのだが水面に映る自分は泣いているのだろうか。


心とは何か。
心が体に投影しているのが自分なのか。
体の投影が心なのか。
この数日間、水面は静かに揺れていた。
まるで見たこともない大魚が水中でゆっくりとゆっくりとくるくる水面に映る私の下で泳いでいたのかもしれない。水面はゆたゆたと揺れていた。
物事には予兆が必ずあるはずもなく、ある者には唐突に、ある者の水面はゆっくり揺れてからその物事が襲いかかるのである。

数日前に私はある夢を見た。4日間も見た。
第六感なのか、血の絆なのか、はたまた偶然なのか。
その大魚は私に伝えた。
水面の揺れは徐々に大きくなって、時々大魚の背鰭がその不気味な程に美しい黄金色の煌めきをこちらの私に見せびらかしていた。

水面に映る私は次第にその姿を歪ませた。
かろうじて写っていることはわかるが、その表情まではわからなくなった。私はことの次第を確かめた。

いつか知る真実は、いつ知ったところで辛いもので。
今日そのことを知った私の水面は不思議と澄んでいた。
現世の技術では作れない屈託のない鏡のように澄んだ水面に写った私の姿は、とてつもなく真顔であった。
こちらの私がこんなにも涙を流しているというのにも関わらずに。
どうやら水面は凍っていた様である。

水面は常に移ろう。
諸行無常。
大魚なのか、風なのか、雨なのか、旱魃か。
はたまた誰かが水面に飛び込んだから、その波紋なのか。
しかしどんなに水面が移ろおうとこちらの私は私でしかない。
変え難い私なのである。
つまりはこちらの私は、ある意味本来写っているはずの私の姿なのかもしれない。
つまり写っている自分の姿こそが浮世の私であり、心の投影であり、こちら側の私こそが私の姿をした私の心そのものなのである。
投影を投影して人は生きているということである。

この凍った水面が溶ける日が来るのなら早く来てほしい。
いや恐らく自ずとそれはやってくるのだが。
春の暖かい日差しにじわじわと溶かされるのか、凍った水面が壊れるほどの投石や嵐がこれからやってくるのかは神のみぞ知るところであろう。

さあ、泣こう。笑おう。怒ろう。甘えよう。
ぽとんっと音がするある春の日を祈って。

あとがき
今まで私は水面に映る自分は、丘にいる浮世の自分の投影であり、水面に映る私こそが自分の心なのだろうとばかり考えていました。然し乍らどうもそれは違った様です。水面に映る私は浮世の私の姿でした。そして丘にいる私の姿こそが心そのものなのです。要するに私は私に私の心を投影して生きていると言うことなのかもしれません。いや、私に姿などないのかもしれません。と言う訳のわからないお話でした。
ここ数日間で私に起きた辛いことを紛らわせようと頭の中を思考実験でぐちゃぐちゃにしたかっただけなのかもしれません。。。読んでくれた皆さん。ごめんなさい。そしてありがとう!

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