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不徳の致すところとは。

じれったい じれったい

結婚するとか しないとかなら

じれったい じれったい

そんなのどうでも 関係ないわ

皆々様は、この歌詞を目にしたことはおありだろうか。お分かりの通り”中森明菜”の”少女A”に出てくる一フレイズである。しっぽりと聴き惚れておりますと、ふとワタクシ自身の結婚観について感慨耽ってしまっておりましたさかい。ちっくと(土佐弁=すこしばかり)お話ししようかと思い立ったのであります。

ワタクシ的結婚観とは

ワタクシにとっての結婚とは、云わば一つのポイントに過ぎず、それは決してゴールでも、理想でも、欲求なんてものでは無いわけでございます。ポイントとは、云わば”妥協点”の一つとでもいえるのではないだろうか。なんて思うわけでございます。悪魔的思考でしょうか?ニヒリストでしょうか?サイコホラーでしょうか?答えは”YES"なのです。声高らかに”はい!先生!”なのであります。だってそれこそがワタクシにとっての結婚に他ならないことなのです。結婚観でワタクシを図ろうものなら、それは悪魔的なサイコニヒリストなのかもしれないと、そういうことであります。

結婚観の正義

然しながら、結婚に、特に結婚観に対する発言も思想も、一種の差別主義的な世俗的伝統論者的発言を除き、言論の自由に他ならないのでございます。結婚に対して前向きの者、後ろ向きな者、はたまた興味本位や、そうするべき風習であろうとした思想を掲げる者。そんなすべての人間様のおっしゃることは全てが正しいのでございます。すべてがそれぞれの結婚の形なのです。例えば、ジブリの様な雰囲気の式場を借りてノスタルジーな式をしたいと申す、一種のお花畑的な女性の喜ぶ顔を見たいがために、大赤字覚悟でエストニア当たりでの式開催を計画する変態亭主がいたと致しましょう。「なんて素敵な新郎だ!」「気味が悪い!」「へぇ~いいんじゃない?」など、人々は十人十色の反応をすることでしょうが、もっとも、この新郎の”愛”と言い換えられた何等かの感情の大きさ等は、本人以外が図ることはできない物なのです。それが結婚という物なのです。すべてがジャスティスなのです。

晩御飯のメニューとしての結婚(メディア的観点)

本日は晴天なり。本日は晴天なり。しかしながらつがいの片割れである、かの噺家なんぞは天下の美人女優とまわりに憧れられながらも結婚後、子を授かります。そして今日、複数女性との不倫、オスメスの関係を認めたとの報道をラジオから教えられたワタクシは、やはり晴天なのでありました。近年情報社会の発展は目まぐるしく、情報をかき集める側も発信する側も、人間様やその扶養の人間様たちの人生を一瞬でぶち壊す術を手に入れられる神の時代に突入しておる気がしております。はたしてこうした術が浮き彫りにしておりますのは、ただひたすらに不倫をした者の不徳の至るところだけなのでしょうか?ワタクシはそのような軽率で、浅はかで、愚かなる空想論など聞く気も致しません。

情報社会の発達は、それを望んでおる人間様の展望の一端でしかないのです。それは意識的に欲する人間様特融の欲求を満たすための晩御飯のメニューなのです。メディアなんて物は常に、ただひたすらに奥行は無い物なのです。人生の破壊など、結婚の報道や、離婚の追求など、もはや今日の晩御飯のメニューとなんら変わりの無い事柄なのです。カレーならば喜び、茄子田楽ならば落胆する程度の物なのです。


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