見出し画像

長崎次郎書店、長崎書店と保岡勝也⑥冨山房


保岡勝也に設計を依頼したきっかけ

 長崎次郎書店の設計を保岡勝也に依頼したきっかけについては、以前も紹介した以下の熊本日日新聞の記事が参考になった。

長崎屋は骨董店と書店を兄弟で別々に経営していたが、そのどちらかの主人が東京神田にある書肆「富山房」の建物を気に入り、その設計者が保岡勝也であったことから設計を依頼したらしい。(原文ママ)

長谷川堯.「家はいきてきた 熊本の洋館・和館めぐり」.熊本日日新聞.1974年1月9日,夕刊2面.

 この「富山房」とは、東京都千代田区神田にある現在の「有限会社冨山房」のことである。ここで冨山房について触れておく。

冨山房とは

 冨山房の創業者は坂本嘉治馬。慶応2年(1866年)3月、高知県宿毛町に生まれ、明治17年(1884年)、18歳の時に上京する。[1]大隈重信と共に現在の早稲田大学を創立した小野梓と同郷だった坂本は、小野梓が開業した東洋館書店に奉公。小野亡き後、東洋館書店を継承する書店として現在の神田神保町に冨山房を開業した。[2]
 内田青蔵「“生き続ける建築-9 保岡勝也 ”婦女子”の領分に踏み込んだ建築家“.INAX REPORTNo.175」によると、保岡勝也は明治35年(1902年)に大隈重信伯爵邸洋館、早稲田大学付属図書館を、大正3年(1914年)に「富山ママ房書肆」を手掛けたとされている。[3]小野梓から繋がるこの辺りの縁から冨山房の設計を保岡勝也に依頼することになったのかもしれない。
 冨山房が保岡勝也の設計によって建てられたのは大正2年(1913年)10月。保岡による建物は冨山房にとっての「第三次社屋」となる。大正2年2月19日の神田の大火により第二次社屋が焼けたことから、保岡に設計を依頼。出来たのは「洋風三階建、白タイル張の瀟洒な社屋」であった。この建物の外観についてはいくつかの書籍に写真が掲載されている。また新築落成式の際に室内で撮影された記念写真には大隈重信の姿も写っている。[4]
 なお、保岡の設計による「第三次社屋」が存在したのは大正12年9月1日関東大震災で犠牲となるまでの10年間だった。
 当時の冨山房の所在地は東京府東京市神田区裏神保町九番地。[5]「冨山房五十年」に掲載されている地図を見ると、現在、有限会社冨山房がある東京都千代田区神田神保町1丁目3とほぼ同じ場所にあったように見受けられる。また、神田古書籍商史編纂会「稿本神田古書籍商史 附録」「神田古書店街配置図」では、明治36、7年頃と昭和22年の配置図で冨山房の位置を確認できる。[6]

長崎次郎書店と冨山房

 出張中だった長崎家の誰かが、偶然この冨山房の前を通り掛かり、建物を気に入ったのかもしれない。しかし両店にはそもそも商売上のつながりがあったようである。明治21年(1888年)に出版された「教育報知」に冨山房が発売した本の広告が掲載されている。その本の取扱い店の中に「熊本長崎次郎」の名前を見つけることができる。[7]

保岡勝也設計による冨山房完成以降の流れ


<参考文献>

[1]「昭和調査録 昭和6年版」.日本人事通信社,1930,p.48.
[2]“早稲田大学と坂本嘉治馬”冨山房インターナショナル.https://www.fuzambo-intl.com/wasedauniv/
[3]内田青蔵.“生き続ける建築-9 保岡勝也 ”婦女子”の領分に踏み込んだ建築家“.INAX REPORTNo.175,2008年7月,p.14.https://www.biz-lixil.com/column/lixileye/inaxreport_no175/
[4]「富山房五十年」.富山房,1936,p.531,p.534,p.635.
p.531には外観写真が掲載されている。外観写真は沢翠峰, 尾崎吸江.「良い国良い人:東京に於ける土佐人」.青山書院,1917,p.210.でも見ることができる。
[5]「官報 1913年12月18日」.大蔵省印刷局,1913.p.462.
[6] 神田古書籍商史編纂会.「稿本 神田古書籍商史」.東京都古書籍商業協同組合第一支部,1964.
[7]「教育報知」.東京教育社,1888.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?