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長崎次郎書店、長崎書店と保岡勝也①長崎次郎書店はいつ建てられたのか


はじめに

 保岡勝也が設計した長崎次郎書店の建物は、同社のホームページによると大正13年(1924年)に創建されたという。しかし調べていくとその竣工年は謎に包まれており、異なる4つの竣工時期に関する記述を見つけることができた。年代の古い順に参考にした資料と該当箇所を引用してみる。

①明治45年2月26日までに再建されたという説

登記簿には「明治四拾五年弐月弐拾六日受付」と記載があり、このことから少なくともそのときまでに再建された建物である。

「熊本市歴史的風致維持向上計画~くまもと歴史まちづくり計画~」(熊本市,2020,p.79.)

 割と新しい2020年に発行された熊本市の資料に書かれているのが、こちらの説である。「明治45年2月26日までに」ということは、それ以降に建築されたと断定できる根拠に辿り付けなかったことが伺える。

②大正13年説

これまでは、熊本日日新聞連載の「家は生きてきた」で紹介された二枚の設計図面の年代に基づいて、1924(大正13)年と判断されていた。

西川真由美,佐藤高光,北野隆.「熊本県の近代化遺産」(熊本県教育委員会,2000,p.79)

 「家は生きてきた」とは「家は生きてきた 熊本の洋館・和館めぐり」と題して、1974年1月から3月末まで熊本日日新聞に掲載された連載記事である。当時、武蔵野美術大学講師だった長谷川堯氏が取材、執筆していた。この1月9日の記事で長崎次郎書店が取り上げられ、以下のように記されていた。

図面の横に「設計保岡勝也事務所」「大正十三年七月」と書いてある。

長谷川堯.「熊本日日新聞」「家は生きてきた 熊本の洋館・和館めぐり」(熊本日日新聞社,1974,夕刊2面)

また他にも大正13年の作品という記述を見つけられた。

「表-2 保岡勝也の作品」
大正13年 長崎次郎書店正面 熊本県熊本市

安西園恵.「保岡勝也の経歴と作品について」(日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸).1992,p.1098.)

③大正15年説

 私が大正13年説に疑問を持つようになったきっかけが、こちらの資料である。保岡勝也の足跡を辿った特集ページの「主な作品」の年表に以下のように書かれている。

1926(大15) 長崎次郎書店(熊本)

内田青蔵.「生き続ける建築-9 保岡勝也 ”婦女子”の領分に踏み込んだ建築家」(INAX REPORT NO.175,2008,p.14.)

 保岡勝也の作品として大正13年とされていることが多い中、大正15年と書かれている。その根拠は何なのか、探っていった結果がこのnoteである。

④昭和3年説

1928(昭和3)年、市内電車第2期線道路開通及び三階増築(裏手にあった解体された蔵の事。)の際、その家主であった長崎茂平(上通店の初代創業者)と棟梁・岩崎嘉次郎との連名による棟札が残されていることから、既存の建物の曳家の際、表通りの店構えだけが、東京の建築家・保岡勝也によって設計されたようだ。それを裏付ける資料として、熊本大学北野研究室には「大正十五年二月 長崎骨董店模様替設計圖」(頭に通し番号1~4)があり、家人の方にもそう伝えられている。

西川真由美,佐藤高光,北野隆.「熊本県の近代化遺産」(熊本県教育委員会、2000,p91.)

 「市内電車第2期線」について補足したいと思う。熊本市電は令和6年(2024年)8月1日開業100周年を迎える。これは最初の路線が大正13年(1924年)に開業したことに基づいている。
 「市内電車第2期線」は昭和4年に開業した路線で、この上熊本線(辛島町―新町―段山間)沿いに長崎次郎書店がある。第2期線は昭和3年に用地買収、工事を開始している。その曳家の際に現在の店構えになったというのがこちらの説である。

5番目の説 昭和4年3月について考える

 大正13年、大正15年というのは、記載された図面があることから、設計された年としては正しいと考えられる。 
 それでは竣工はいつなのか。過去の書籍や資料で長崎次郎書店に関する記述を探したが、まず大正13年、大正15年に改装や新築をしたという文章を今のところ見つけられていない。代わりに竣工年として最も可能性が高いと感じたのは、先に挙げた4つの年代ではなく、昭和4年3月である。その根拠として2誌の文章を引用したい。まず1つめは昭和4年9月に出版された「熊本之事業と人物」の中の次の文章である。

大正三年本邦建築界の大権威たる保岡工學士に依嘱し、書籍部陳列と室内採光及び換氣を主として特に考案せる設計により大改修工事を施し、昭和四年三月東洋西洋の粋を結晶した本店の新築を営み、熊本市に於ける建築美を放つてゐる。

下吉正助.「熊本之事業と人物」(熊本之事業人物刊行所,1929,p.26.)

 この「保岡工學士」が保岡勝也であれば、現在の長崎次郎書店の設計以前に、保岡勝也と長崎次郎書店には関わりがあったことも伺える。ただしこの文章は、当時長崎次郎書店の支店であった長崎書店の記事の中に書かれており、そのため大改修工事は長崎書店のことと思われる。(このことについては他誌でも確認できるので後日記述する。)そしてこの文章から、本店である長崎次郎書店は昭和4年3月に新築されたということがわかる。 
 続いて2つめは昭和11年に出版された「新日本人大系 上巻」の中にある次の文章である。

昭和四年三月東西の粋を蒐めたる本店の新築を完成し熊本市街に一美観を添へ

「新日本人物大系 上巻」(東方経済学会,1936,p.604.)

 こちらには保岡勝也の名前は出てこないが、以上2誌から昭和4年3月に本店(長崎次郎書店)が新築されたことは間違いないように思われる。ただし保岡勝也の図面には「模様替」と書かれているため、いわゆる「新築」ではないかもしれない。ファサードを「模様替」したことで「新築」に見えたとも考えられる。 
 これらの書籍以降に長崎次郎書店がさらに新築されたという記述を今のところ見つけられていない。よって現段階では昭和4年3月の「新築」が現在の建物の竣工を指す可能性が高いと想像している。 

このnoteの目的

 このnoteは大正13年説を否定することが目的ではない。長崎次郎書店の建物の歴史的価値を考えた時、保岡勝也の作品として竣工はいつだったのか、素朴な疑問の答えを導き出したいというのが率直な思いである。もちろん答えが見つからないという答えになるかもしれないが、歴史の行間を読み解く楽しさを味わいたいと思う。
 諸説にまつわる根拠などご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご教示ください。

余談

長谷川堯氏のご長男は俳優の長谷川博己氏。

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