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下北沢で会いましょう

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コワーキングスペース「ロバート下北沢」のオーナー・原 大輔が綴る、ロバート下北沢を作ったワケ。そこにはいろんなものが繋がっているストーリー。
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#シェアオフィス

【第12回】グラフィックの世界に入り込め。

設計会社での1年ちょっとの間、下っ端ながらPCを扱わせてもらったり、内田塾に通ったりいろんな経験をさせてもらった。Macに触れ、自分が考えたものが瞬時に画面の中に表現ができることに遭遇した俺は、インテリアからグラフィックへ興味が動いていた。 転職雑誌を数冊見ながら、片っ端から電話、もしくは履歴書を送りまくった。面接すること数10件、美大やグラフィックの専門学校も出てないし、インテリアでの経験も1年ちょっと。ほとんどの会社の反応は悪かった。面接してくれたところもあったが、

【第11回】デザイナー原大輔のはじまり

俺が再三言っている「原風景」とはなにか。 1999年からの数年間、友人を通して知り合った仲間たちと作ったコミュニティのことだ。 その前に、俺のデザイナーとしての成り立ちから話そうと思う。 大学受験にことごとく失敗した俺は、最後の最後で夜間の大学に滑り込んだ。現役と浪人時代に美大を受験していたのだが全て不合格。高校の最後の時期までラグビー漬けだったので、当然デッサンなんてやってこなかった。小論文には自信があったので、学科と小論文で受けられる大学を探して、受験した。ひとつは学

【第10回】野生の証明〜不器用な男ですから〜

認知、集客のために、なんでもやった。トークイベント、ワークショップ、落語の会、そしてパンマルシェ。特にパンマルシェは好評だった。都内の名だたるパン屋さんを厳選して、夕方までに作ってもらって、そのまま羽田へ。(段ボール50箱!)福岡空港に到着して、レンタカーで店まで運んで夜中に陳列。その日の朝にオープンと、かなりの綱渡りで行っていた。朝にはもうお客さんの長蛇の列。正直ビビった。ここまで反響があるとは。。おおよそ200人くらいは並んだじゃないだろうか。 最初はクレームもいただい

【第9回】地方で回す「義理経済」

のっけから強烈な三河のじいさんの出会いもあったが、嬉しい出会いもあった。 こっちが呼んだのではなく、ふらっとやってきたと言った方が正しいのかもしれない。店に立ち寄った若者5人が自立していったのだ。 お茶の仕事がしたいと言ってた保母の女の子、民泊をやりたいと話していたショップ店長の女の子、独立して自分たちの名前でやっていきたい陶芸家夫婦。地元でプロダクトやグラフィックの仕事で独立したばかり男の子。そのだれもが1、2年で実現していき、いま活躍中だ。 独立することは困難を伴う

【第8回】その出会いは、突然に

Fountain Mountainを開くときに考えていたこと、大体この5つだ。 ・街に毒を盛る ・自立した人たちとのつながり ・街の雰囲気に飲まれない ・街で変わってると思われる人との出会い ・街の系譜を探る 毒を盛る。第7回に書いたとおりだ。街に刺激を加えるために、よりクリエイティブでヒントになるものをどう投下していくか。街の悪い先輩みたいな。 自立した人たちとのつながり。幸いにもこの街に新しい場所をつくる前にインタビューした人たちがいた。その人たちはしっかり自分で考え

【第7回】新しい場所のはじまり

2016年9月23日、ついに新しい場所「Fountain Mountain」がオープン。ここまでいろんな仲間たちに支えられてきた。試行錯誤しながら手探りでのハンドメイドな活動がようやく始まった。接客、集客、会計、販売、どれもが人生初。ハンドドリップのコーヒーを辿々しく入れ、引きつった笑顔で接客をしていた。 オープンに東京から佐賀まで集まってくれた仲間たち 地元の神社にお願いして、開所の祈祷をしたはじまりの日 幸い、東京と違ってこの辺りは人が少ない。商売としてはヤバいが、

【第4回】会社を壊した。じゃぁ俺は?

ウチの会社に他の人のノイズを混ぜ合わせることで、ここ下北沢での活動が始まった。 古株のスタッフの独立など入れ替わりもあり、会社も若手スタッフの人数も多くなってきた。後輩の編集プロダクションやデザイナーのメンバー、フリーで加わった外からのメンバーたちがいい感じにウチの会社をかき回してくれていた。はじめこそ、みんな戸惑っていたとは思うけど、次第に心が通い合うようになって、若手メンバー同士で飲みに行ったり、スタッフたちは先輩たちに業界のいろはを教えてもらったりしていた。停滞してい

【第3回】ちょうどいいノイズ

自分を壊したかった閑静な街、代々木上原から「街に降りよう」と思ったのは、もう一度街のノイズを感じながら制作したいなと思ったワケで、デザイナーとして刺激が欲しかった。 ノイズというのはいろいろあるんだけど、人のザワザワした感じや息遣いが自分にとって制作には必要不可欠だと気づいたのは、安定してきた自分をもう一度壊したかったからだ。デザイナーとして一周廻った感じがして、いろんなことにチャレンジしていた血気盛んだったあの頃の感覚を思い出していた。 もちろん、40も半ばの歳である程