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下北沢で会いましょう

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コワーキングスペース「ロバート下北沢」のオーナー・原 大輔が綴る、ロバート下北沢を作ったワケ。そこにはいろんなものが繋がっているストーリー。
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#ロバート下北沢

【第16回】無色透明からカラーになった瞬間

あと30ページ分を印刷に入れて終了というその日の夜、事件は起こった。 作業していたMacの画面が突然ブラックアウト...。 いまでは考えられないかもしれないが、20年前のMacは突然フリーズする「爆弾マーク」というものが出ていた。 グラフィカルに「爆弾」が出て、かわいいね〜なんって言ってる場合じゃない。 30ページ分のデータが一気に吹き飛んでしまったのだ。校了まであと5時間くらい、その時、俺は...。 そばのソファにふて寝してしまった。 もう寝るしかなかった。知り合い

【第15回】溜まり場からクリエイティブ集団の誕生前夜

まるまる1冊をつくるというのは、俺としても初めての試み。 仲間が結集して、編集、撮影を行った。モデル撮影、カタログページ。自分たちの理想をぶつけたのは面白かった。 デザインもアシスタントのコイミーの友人たちを集めてもらって、8畳のボロアパートに寝泊まりしながらあーでもないこーでもないと進めていった。 無事、本も出来上がり、ギャラのすったもんだはあったものの1冊を仕上げた安堵と高揚感はいまだに忘れない。 代々木に屯っていた仲間たちとの共同作業をやり終えて、俺の記憶だとここ

【第14回】代々木へ、こども向けからアダルトまで

カメラマンのMに手をひっぱられつつ、代々木駅周辺で5万8千円のアパートの2階を借りることになった。 近所の材木屋で板を買ってきて、自分たちで床を張り替え(大家には言ってない)、壁にペンキを塗って、机を組み立てて事務所らしくなっていった。 代々木時代の5万8千円のボロアパート。色がきれいに塗り替えられていた。階段を上がった2階が俺たちの根城だった。 仕事は相変わらずそんなに無かった。恵比寿のニートから現実へ引き戻してくれたカメラマンのMは相変わらず忙しそうだった。 引越

【第13回】独立するものの...

独立の前に、経緯を少しばかり。 2年で独立することは決めていたが、やはり少しは悩んだ。 転職活動なども一応はやってみた。その中の1社、音楽制作事務所のアートディレクターの職に受かったのだが、独立⇄転職で俺の心は揺らいでいた。 当時インディーズレーベルの仕事をしていた先の音楽出版の会社の方に相談をしたところ、どうもその音楽制作事務所はヤ○ザ絡みであまりいい印象ではなかった。 ここでエイヤーとそこに飛び込むか、それとも独立か。 最後の頼みは、そう「占い」。当たるも八卦、あたら

【第12回】グラフィックの世界に入り込め。

設計会社での1年ちょっとの間、下っ端ながらPCを扱わせてもらったり、内田塾に通ったりいろんな経験をさせてもらった。Macに触れ、自分が考えたものが瞬時に画面の中に表現ができることに遭遇した俺は、インテリアからグラフィックへ興味が動いていた。 転職雑誌を数冊見ながら、片っ端から電話、もしくは履歴書を送りまくった。面接すること数10件、美大やグラフィックの専門学校も出てないし、インテリアでの経験も1年ちょっと。ほとんどの会社の反応は悪かった。面接してくれたところもあったが、

【第11回】デザイナー原大輔のはじまり

俺が再三言っている「原風景」とはなにか。 1999年からの数年間、友人を通して知り合った仲間たちと作ったコミュニティのことだ。 その前に、俺のデザイナーとしての成り立ちから話そうと思う。 大学受験にことごとく失敗した俺は、最後の最後で夜間の大学に滑り込んだ。現役と浪人時代に美大を受験していたのだが全て不合格。高校の最後の時期までラグビー漬けだったので、当然デッサンなんてやってこなかった。小論文には自信があったので、学科と小論文で受けられる大学を探して、受験した。ひとつは学

【第9回】地方で回す「義理経済」

のっけから強烈な三河のじいさんの出会いもあったが、嬉しい出会いもあった。 こっちが呼んだのではなく、ふらっとやってきたと言った方が正しいのかもしれない。店に立ち寄った若者5人が自立していったのだ。 お茶の仕事がしたいと言ってた保母の女の子、民泊をやりたいと話していたショップ店長の女の子、独立して自分たちの名前でやっていきたい陶芸家夫婦。地元でプロダクトやグラフィックの仕事で独立したばかり男の子。そのだれもが1、2年で実現していき、いま活躍中だ。 独立することは困難を伴う

【第8回】その出会いは、突然に

Fountain Mountainを開くときに考えていたこと、大体この5つだ。 ・街に毒を盛る ・自立した人たちとのつながり ・街の雰囲気に飲まれない ・街で変わってると思われる人との出会い ・街の系譜を探る 毒を盛る。第7回に書いたとおりだ。街に刺激を加えるために、よりクリエイティブでヒントになるものをどう投下していくか。街の悪い先輩みたいな。 自立した人たちとのつながり。幸いにもこの街に新しい場所をつくる前にインタビューした人たちがいた。その人たちはしっかり自分で考え

【第7回】新しい場所のはじまり

2016年9月23日、ついに新しい場所「Fountain Mountain」がオープン。ここまでいろんな仲間たちに支えられてきた。試行錯誤しながら手探りでのハンドメイドな活動がようやく始まった。接客、集客、会計、販売、どれもが人生初。ハンドドリップのコーヒーを辿々しく入れ、引きつった笑顔で接客をしていた。 オープンに東京から佐賀まで集まってくれた仲間たち 地元の神社にお願いして、開所の祈祷をしたはじまりの日 幸い、東京と違ってこの辺りは人が少ない。商売としてはヤバいが、

【第6回】とうとう始まってしまった

佐賀のプロジェクトに関わってもらった設計会社の二人と接していく内に俺の中で湧き上がったもうひとつの「デザイン」があった。それは、カタチのないものを形にしていくこと。簡単に言うと「状況」をデザインしたいと思ったのだ。 それはまさに「パブリック・スペース」に関わったことで思いを強くしていた。いきなりカタチあるものを前提に考えるのではなく、人を考え、状況を作る。そして形あるものをデザインしていくことと勝手に考えている。 さて、佐賀のプロジェクトだが、会社は作ったことはあるが、他

【第5回】場所を作ろうと思う

強烈な出会い話が下北沢からいきなり遠く九州の佐賀に飛んでしまったワケだが、これにはもちろん理由がある。 2014年くらいから仕事で、とある建設設計会社の2人と「パブリック・スペース」についてのお手伝いをさせてもらっていた。俺たちみたいに、グラフィックなど紙媒体中心のデザインをやるものにとって、都市や地域のことなんてほとんど考えもしない。しかも彼らは20年、30年先を見据えて思考している。こっちの仕事は1ヶ月、長くて1年くらいだ。想像できなさすぎて、途方に暮れた。最初はかなり苦

【第4回】会社を壊した。じゃぁ俺は?

ウチの会社に他の人のノイズを混ぜ合わせることで、ここ下北沢での活動が始まった。 古株のスタッフの独立など入れ替わりもあり、会社も若手スタッフの人数も多くなってきた。後輩の編集プロダクションやデザイナーのメンバー、フリーで加わった外からのメンバーたちがいい感じにウチの会社をかき回してくれていた。はじめこそ、みんな戸惑っていたとは思うけど、次第に心が通い合うようになって、若手メンバー同士で飲みに行ったり、スタッフたちは先輩たちに業界のいろはを教えてもらったりしていた。停滞してい

【第3回】ちょうどいいノイズ

自分を壊したかった閑静な街、代々木上原から「街に降りよう」と思ったのは、もう一度街のノイズを感じながら制作したいなと思ったワケで、デザイナーとして刺激が欲しかった。 ノイズというのはいろいろあるんだけど、人のザワザワした感じや息遣いが自分にとって制作には必要不可欠だと気づいたのは、安定してきた自分をもう一度壊したかったからだ。デザイナーとして一周廻った感じがして、いろんなことにチャレンジしていた血気盛んだったあの頃の感覚を思い出していた。 もちろん、40も半ばの歳である程

【第2回】街に降りよう!

自分でnoteを始めるにあたって、とにかく1日1記事を目標に書いてみようと思っている。100日でなんちゃらのワ◯みたいなね。 ここでは下北沢に移ってきた経緯やロバート下北沢を始めようとした経緯などをつらつらと語っていきます。 懐かしい「匂い」シモキタに来たのはおおよそ20数年ぶり。デザイナー駆け出しの頃、友人がシモキタに住んでいたりしてよく遊びに行っていた。今だとご飯屋さんの「山角」があるその並びにあった「BEBE」という店なんかに飲みに行っていた。自由な雰囲気でシモキタ