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AI時代に求められる知性のかたち

中3の息子の友だちが高校受験を終え、毎日のように我が家に入れ替わり立ち替わり遊びに来る。多い日は5名くらい来て、ここのところ週5ペースで彼らの夕食をつくっている。さながら「子ども食堂」だ。

「うま!」「ロベルトさんのつくるご飯おいしいです」と言ってくれるものだから、調子に乗って(乗らされて)つくっている。

料理をしながら彼らを観察していると、本当に個性があっておもしろいと思う。

有名私立に合格した者から不登校で出席日数が足りずなかなかいい結果を得られない者まで、要領のいい者から不器用な者まで、上品な者からワイルドな者まで、いろんなタイプの中3男子がうちに来る。昨日も最後の期末テスト勉強という名目で集まり、しゃべったり遊んだり歌ったりしながら勉強していた。

彼らを見ているとつくづく「知性 (Intelligence)」って何だろうと思う。成績はいまひとつだが私が会社をやっていたらこういう若者を採用したいと思うくらいの者が何人もいる。だが、彼らの魅力を数値化する指標はいまのところ見当たらない。

サッカーではよく「IQ (Intelligence Quotient)」「創造性 (Creativity)」といった表現が使われる。

動きの選択肢が多く、状況判断に優れていて、素早く的確なポジショニングとキックができることを「サッカーIQが高い」と言ったり、予想外な動きで敵のディフェンスをかわしてシュートを決めたりすることを「創造性がある」と表現したりする。

とくにサッカーIQは、「ゴール数」「デュエル勝利数」「パス成功率」といったスタッツにもある程度現れるが、たとえば瞬時に取る守備位置の的確さなどは、それによってそこに敵が攻めにくくなるわけだが、数字には出にくい。

イギリスの能力開発、教育の専門家である故ケン・ロビンソンがこの動画のなかで、これまでの知性の尺度に疑問を投げかけ、具体的な例を挙げながら、「知性は多様で、ダイナミックで、比類ないもの」と言っている。

ある少女が1930年代のイギリスで、学校にうまく適応できずにいた。あるとき学校から両親に「娘さんに学習障害があるようだ」と手紙が来た。授業に集中できていないと。いまでいう「多動」「ADHD」だった。

専門家のところに親子で出向き、ドクターと20分ほど問題について話したあと、ドクターが彼女に「お母さんと2人で話したいからここで待ってて」と、ラジオのスイッチを入れ、彼女を1人残して部屋を出た。ドクターが「ごらんなさい」という先を母親が見ると、少女がラジオから流れる音楽に踊っていた。

ドクターが母親に言った。「彼女は病氣なんかじゃありません。ダンサーなんですよ。ダンススクールに通わせてあげてください。」

彼女は「考えるために体を動かさないといけない (had to move to think)」のだった。体を動かすために考えるのではない。体で考えるのである。多様な知性のひとつのかたちだ。

この子はジリアン・リンといって、後にダンサー、振付家になり、作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーと出会い、ミュージカル「キャッツ」「オペラ座の怪人」などの振り付けをした。比類なき知性である。

もっとも一般的な知性は、言語による知性だ。

言語による知性はリニア(直線的)に考える。文ははじめからおわりに向かって直線的に進むからである。

それにたいし、上記のサッカー、ダンスのような身体による知性は、瞬時に同時多発的に「考える」。

現在急速に進化しているAI (Artificial Intelligence) は、どちらかといえば言語、そして数値化できる情報を中心とした知性だ。いま人間に求められるのは、それ以外の知性のかたちなのではないだろうか。

今日も我が家にはきっと、さまざまなかたちの知性を持った若者たちが集まるだろう。

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