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視覚で考える人々

周囲の親しい人は、思考、認識、問題処理、表現などにおいて、いくつかのタイプに分かれる。

ひとつめは、言葉に長けているタイプ。言葉がよどみなく出てきて、話し合いでも常に先頭に立って意見する。若い頃にやった外務省や総務省、文部省がらみの仕事のときも、そこで会ったエリート官僚の多くがそういう人たちだった。とにかく頭が切れる。息子が小学校に入ってから接することが増えた学校の先生方の多くもそのタイプだ。

ふたつめは、身体能力に長けているタイプ。若い頃コンテンポラリーダンスの曲をよく書いていたときに接した国際的に活動していたダンサーたちには、まず身体で表現して、論理や感情などがそのあとについてくる印象を持った。私自身ずっと(適性に反して)運動をやっていたので、周囲には言葉(勉強)より運動という人が多くいた。

三つめは、視覚に長けているタイプ。一度通った道は覚えているし、部屋がぐちゃぐちゃになっていてもどこに何があるかちゃんと把握している。驚くことにWiFiルーターの裏にあったりするメーカーが勝手に決めた不規則なパスワードを視覚(音ではなく)で記憶する。プレゼン資料をつくらせると図を多用する。

四つめは、感情に長けているタイプ。いろんなことを感情と紐付けする。写真を教えているとこの手のタイプの人に多く出会う。彼らはある瞬間の、言葉にならない感情を視覚化するために写真をやっている。感情は言語ではない。便宜上言語化はするが、感情が上位にある。

それ以外にも、味覚に長けているタイプ、聴覚に長けているタイプなどなど、どこで分類するかによるが、ほんとうにいろんなタイプの人がいる。

本を読むために入った喫茶店では英語メニューを出された

「ビジュアル・シンカーの脳」テンプル・グランディン著、中尾ゆかり訳(NHK出版)を読んだ。

 私は自閉スペクトラム症(ASD)であるため、4歳になるまで言葉が出なかった。8歳になってやっと字が読めるようになったのは、発音とつづりを結びつけて単語を学ぶ音声学習法の個人指導をたっぷり受けたからだ。
 小さいころ、まわりの世界を言葉で理解できなかった。画像で理解したのだ。たしかに今では言葉を話すが、それでも考えるときにはおもに「絵」を使う。

「ビジュアル・シンカーの脳」テンプル・グランディン著、中尾ゆかり訳(NHK出版)

グランディン氏の分類では、世界には言語思考者と視覚思考者(ビジュアル・シンカー)がいる。彼自身は典型的な視覚思考者だ。

現代社会や学校教育は、言葉でものごとを思考する言語思考者が設計し、彼らに有利なようにできているという。

言語思考タイプの人たちにしてみると、画像でものごとを考えることなど考えられないだろうし、彼もある年齢になるまで人々が言語で考えているとは思っていなかった。

多くの人は両者の特性を持っている。後述するが、私は視覚思考がつよいタイプのようだ。

ちなみにこの本の存在を知ったのはこの動画から。

「視覚思考者はテストが得意ではない」「言語思考者が設計した社会」「視覚思考者を含むチームの方がエラーを減らせる」「言語化ハラスメント」などが語られている。

ところで、視覚思考者にとってはあたりまえなのだが、視覚思考というのは、「画像を援用して考える」のとはちがう。「画像そのもので考える」のである。

イタリアの写真家ルイジ・ギッリの写真集に、まさにそのままのタイトルのものがある。

Luigi Ghirri -Pensare Per Immagini-

© Luigi Ghirri and MADE IN WONDER
© Luigi Ghirri and MADE IN WONDER

タイトルの Pensare per immagini は英語にすると Thinking in Images つまり「画像で考える」「視覚で考える」。

ギッリの写真をみると、視覚思考者なら「うんうんわかるこの感じ」となるだろう。言語思考者なら「彼の生きた時代のイタリアのxxを象徴している」などと説明したくなるだろう。

言語思考者の立場からすると、画像は言葉を置き換え、象徴するものだが、視覚思考者の立場からすると、言葉はそこに介在しない。だけどちゃんと考えている。

また、上に挙げた感情に長けているタイプの人からすると、画像は言葉(ロゴスやイデアを示すものとしての言葉)を象徴するのでなく、文では言い表せない感情を置き換えるものなのだ。彼らはギッリの写真からをも感情を読み取るだろう。

ちなみに私はといえば、

ある種の視覚思考者が私とまったく異なることにそれとなく気づいたのだ。空間視覚思考者、絵でなくパターンや抽象的な概念で考える人たちだ。(中略)視覚思考者には、私のような絵で考える「物体視覚思考者」と、数学の好きな「空間視覚思考者」という二つのグループがあって、後者はこれまで見過ごされてきたが、視覚思考者の重要な一集団で、パターンで考えるというのだ。

同上

この空間視覚思考者の割合が高い。複雑な事象をシンプルに抽象化するのが好きで、アートでは、三次元より二次元(絵、写真)化することが好きだし(できれば一次元化したいとさえ思っている)、文でいえば、読むのも書くのも、小説よりも、何かの法則や抽象化にかかわるものに惹かれる。

いろんな分野の新しいことをやるのが好きなのは、何かを始めてその法則性を理解すると満足して次に行きたくなるからだろう。

できる限りシンプルなアルゴリズムを考えるのも好きで、それは10代のときにやっていたコンピュータープログラミングの影響かと思っていたがそれだけではなさそうだ。日常でも「ルーティン/サブルーティン」という発想で料理していることにさっき氣づいた。典型的な不器用なシングルタスク人間の私が、たとえば最終的にある時点で出来上がる弁当を想定して、こちらのコンロではこれを温めながら(サブルーティン)、こちらのコンロでこれを炒め(サブルーティン)、ほぼ同時にひとつの料理を完成させる(ルーティン)といったマルチタスク的なことができるのは、朝目覚めてベッドのなかで(あるいは前の晩に)、そのプログラムを視覚的に書くからである。そういう抽象化、パターン化が好きなのだ(ちなみに、弁当に赤黄緑の3色を入れると美味しそうに見える法則は、弁当づくりを始めた中3のときに経験から氣づいた)。

こう考えると、昨今の言語化ブームとでも言えるようなあらゆることを言語化することをよしとする風潮も、無批判に肯定することはできない。そのあたりについてはまた後日。

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