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そのとき、「しらける」とはどういうことかを知った

2000年代前半のことである。山梨の高原にあるレコーディングスタジオで、ある歌手のアルバムのレコーディングを泊まり込みでやっていた。私はすべての曲のアレンジとピアノ演奏を担当した。

レコーディングも大詰めのある朝、我々ミュージシャンたちは予定よりも早くスタジオに入った。

レースのカーテン越しに高原の朝日だけが入る薄暗い、だが澄んだ雰囲氣のスタジオで、誰からともなくその日レコーディングする予定の曲を弾きはじめた。

1人、また1人とミュージシャンが加わった。全員が音の輪に入ると、1人ひとりがそれぞれの楽器で音の彫刻をしているかのように、音が立体的に響きだした。その音は命を有するかのように動いていて、スタジオを超えて周囲の木々と共鳴さえしているかのようだった。

我々はますます音楽に入り込んで弾いた。アレンジャーとしての私もこんな音がほしかったと弾きながらよろこんだ。至高の体験だった。

その最中にスタッフが1人入ってきた。「おはようございまーす」と言いながら彼は、スタジオの蛍光灯を1つひとつつけ始めた。

すると、驚いたことに、まるで魔法が解けたように、ついさっきまで立体的で有機的だった音が周囲に拡散していった。音の肉が風に飛ばされたかのように、骨組みだけが残った。スカスカの音楽のように聞こえ出し、我々は演奏を止めた。

そのとき、「しらける」とはどういうことかを知った。

「白い」蛍光灯に照らされ、音は、そして我々は、文字通り「白けた」のだった。

その後レコーディングは順調に進んだ。だが、東京に帰ってからも、そのときの音体験が脳裏から離れなかった。

思えば、深夜のタクシーの後部座席で聴くAMラジオの音楽が妙に説得力を持って聞こえる体験を幾度となくしたことがある。ダークダックスが「母さんが夜なべをして」なんて歌っていたときにはじーんと来たものだ。

いまとなれば冗談としか思えないが、CDが開発された当初、CDの再生する音は周囲の明度によって質が変わるのではと真剣に議論されていた。つまり、暗いところで聴くといい音に聞こえるというのである。

コンサートホールでは、演奏中には客電を落とすのが習慣になっている。これもコンサートの音をよく聞かせるための知恵なのだろう。

環境の明度は人の音の認識に影響を与え、暗い環境では聴覚の解像度が上がる。聴覚だけではない。明かりの控えめなレストランの料理に人の味覚はより敏感に反応する。暗い環境では、視覚の解像度が落ちる分、他の感覚の解像度が上がる。

キャンプで静かに火を囲んでいるとき、また花火を見上げているとき、そこに言葉がなくとも、ふと言葉以上の解像感で周囲の仲間とコミュニケーションを取っていると感じる瞬間がある。

それは昼行性である人類が、明かりのない夜に外敵から身を守るため、少しの異変を認知し、情報を伝達するために身につけた能力なのではないだろうか。

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