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generative designと解像度

generative design=プログラムによって生成されるグラフィックについての、きわめて個人的な思い出語りです。

10数年前、学生のときに一時期PostScript言語でグラフィックを書くことにはまった時期がある。テキストエディタで書いたPostScriptのプログラムを直接レーザープリンタに送信すると、計算結果が「紙」になって出てくる。そもそも出力先がディスプレイではなく「プリンタ」というのが最高にクールだと思ったし、ひまわり関数やフラクタルツリーのようないかにもプログラムで書けそうな形であっても、0.3ポイントの繊細な線で紙に出力されるのはハッとするほど新鮮であった。フォトリアリスティックなCG表現にさっぱり関心が持てなかった僕にとっては、こんな「CG」もあるんだ! という驚きがあった。

(画像は筆者がProcessingで作ったもの)

細かい線がいっぱいで解像度が高い!という感動はわりと原初的だ。蛍光ピンクってなんか綺麗だなーとか、キラキラ光るものはきれいだなー、のような、動物的な快感が伴っているように思う。

PostScriptは、出力が紙という旧時代感?からか、当時はFlashやJavaScriptのようなWeb関連技術とくらべて、ネットで見つかる情報は極端に少なかった。自然と、図書館で借りるなり買うなりする本を読んで知識を得ようとすることになる。

そんな中、2001年に発行された、前田ジョン氏の名著「design by numbers」は画期的だった。なにがって、「本に載っている作例が格好いい」ことに尽きる。

John Maeda "Design By Numbers"(表紙からしてとても良い)

出版当時はgenerativeなCGを書くためだけに作られた教科書と呼べるものはほとんど無かったと記憶している。PostScriptでとにかく絵を描きたかった僕は、プログラミングの本の一部に申し訳程度に解説されたグラフィックの章であったり、あるいは数学や3DCGの本の中に「コラム」や「お遊び」として紹介されている例であったりを仕方なく参考にしていた。そういった本に出てくる絵はお世辞にも格好良さや美しさがあるとは思えず、読みながらなんとなく気持ちが萎えていくのを感じていた。

しかし、「design by numbers」は違った。時折挟まれる作例には、どれもシンプルで洗練された美しさがあった。プログラミングの力を借りればこういうものが自分にも作れるかもしれない、という期待がモチベーションを上げる効果は馬鹿にできない。今にして思うと、前田氏個人のセンスや感覚の良さを、プログラムを学べば手に入れられると愚かな勘違いしていただけかもしれない。

ともあれ、当時とにかく何か大きな絵を作ってみたかった僕は、JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)が主催していた「Japan 2001」展の学生部門に応募してみた。覚えたてのPostScriptで生成された「2001本のラインが水引き結びのように連なり、その先端に連番の数字がプロットされている」というものだ。異様に細い描線が物珍しかったのか、「金の卵賞」という一応の最高賞ながらもちょっと恥ずかしい名前の賞をもらった。

筆者がJapan 2001展に出品したポスター

学生賞とはいえある程度の評価をもらったことでなんとなく満足してしまったことと、興味の矛先が本や映像のアイデアを考えるほうへ移行してしまったので、これ以降、プログラムを書いて絵を作る手法からは遠ざかってしまった。学校を卒業してから始めた仕事に、この繊細なトーンをうまく合わせられなかったから、という理由もある。

いきなり時間が飛ぶが、それから数年後、2006年の文化庁メディア芸術祭アート部門に、木本圭子氏による「Imaginary Numbers」が選ばれたときに、ちょっと複雑な驚きがあった。木本氏は90年代からずっとプログラムによって生成される有機的なかたちを用いた作品を作り続けていて、既に一定の評価を得ている方という認識だった。それが、2006年になって受賞と言われてもぴんとこなかったのだ。賞を贈るならもっと早くあげておくべきだったんじゃないの?と思った。

「Imaginary・Numbers 2006」木本圭子

ただ、実際に受賞作を生で見ると意味がわかった。受賞の対象作である最新の作品群は、以前の小さなモニタによる映像とは異なり、フルハイビジョンの高精細ディスプレイを利用するようになっていた。基本的なフォルムは氏の一連の作品の延長線に感じられたが、解像度が一気に上がり、とにかく目に気持ち良いのだ。じっと見ていられる、と言い換えても良い。

ひょっとしたら、木本氏はずっと以前からこの映像がイメージできていたのかもしれない。テクノロジーがその構想を十分に表現できるレベルにまで、やっと近づいただけなのかもしれない。ごくごく単純に、解像度が上がるだけでも十分にまったく新しい別の価値が生まれるのだ。

僕はいまでも、いわゆるインタラクティブ性のあるアート作品よりも、こうした静的なgenerative designにひどく心が惹かれてしまう。ずっとそのわけが自分で分からなかったけれど、ひょっとしたら「単純に解像度が高いものが好きだった」といういささか拍子抜けな理由なのかもしれない。

その思いが強化されたのが、2009年に発売された分厚い本、その名も「Generative Gestaltung(英題:Generative Design)」である。

(書影はAmazon.co.jpより)

Vimeoで本の内容を少し見られます(noteの記事内に埋め込めなかったのでリンク)→ Generative Gestaltung


すごい! まったく知らなかったけれど、あれから数年たって、generative designはこんな分厚い本を作れるほど歴史が積み上がってきたんだ!と驚いて、発売すぐに書店へダッシュした。そして、初見の感想は、ともかくそのボリューム感と美しい作品群に対する純粋な驚きがあった。

ただ、心のどこかで「あれ?」という小さな引っかかりがあった。

今思い返すと、その引っかかりは、「全体的に絵のトーンが似てる気がする」という、肩透かしを食らったような落胆に近い何かであった。

確かにクォリティは上がっているのだけれど、10数年前に、大学のプリンタから恐ろしく細かいフラクタルツリーを出力したものを見たときの「あの快感」と、本質的な方向性は変わっていないのでは、という疑念だ。generative designの「良さ」は解像度に寄り過ぎてるのではないか?

プログラムによるグラフィックの生成=generative designには、あのPostScriptプリンタ時代、とても豊かな土壌が広がっているような予感があったし、今もまだそう思っている。アート作品のような見せ方とは違う、もっと多人数向けのメディアになんとか適用できないかといつも考えている。

どうしても普段の自分の仕事にうまく組み込めないのは、「作品」としてではなく、商業デザインの中に組み込もうとするとトーンが繊細すぎて、私はデザインが好きですと自認しているような、ごく一部の人にしか届かない印象があるからだ。

コンテクストに依存しすぎていて、解説されないと凄さが分からないのは勿体無いことだと思う。「圧倒的な解像度」に依存していないかたちで、誰にでも格好良さや美しさ、面白さが伝わるようなgenerative designはないのだろうか?

と、ここまで書いて、僕に具体的なアイデアや方向性があるわけではないことを告白しておきます(すみません)。ただ、なぜかこの数ヶ月くらい、久々にまた「絵を描くためのプログラム」を書いてみようかな、という気になってきています。諦めるのはまだ早いと思うのです。

(追記)その後、generativeなグラフィックと手描きのイラストレーションを組み合わせた同人誌を作ってみました。これはこれで「解像度依存」であることには変わりありませんが… → パラメトリック | 平均律

(2018-09-22 追記)generative designの日本語版が2016年2月、BNN新社より発行されましたが、上記の同人誌『パラメトリック』を作例のひとつとして取り上げていただきました。自分が衝撃を受けた本に7年越しに掲載されたのは、素直にとても嬉しいです。とはいえ、解像度依存への答えにはなっていない部分もあります。何か別の方策がないか、細々と考えていきたい所存です。


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哺乳類です。/ 所属:http://euphrates.jp / 経歴:http://robertyamamoto.jp / 同人誌:http://heikinritsu.com
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