見出し画像

ノーヴァヤ・ゼムリャのネネツ ティコ・ウィルコ

 ソ連時代のモスフィルム制作の映画の一つに「偉大なるサモエード(Великий самоед)」という作品があった。

 映画の舞台は20世紀初頭のノーヴァヤ・ゼムリャ島。ここで生まれ育った少数民族ネネツの少年が、ロシア人探検家たちと出会うことから物語は始まる。
 探検家によって主人公の少年はその美術的才能が見出され、モスクワの芸術学校に留学し、次々と新しいものを吸収していく。
 しかし故郷の兄の訃報が届くと、主人公はネネツの慣習に従って兄の妻と結婚して一族を率いねばならず、学業半ばでノーヴァヤ・ゼムリャへと帰っていく。
 ほどなくしてロシア革命が起こり、僻地であるノーヴァヤ・ゼムリャにも革命の波がやってきた。モスクワで教育を受けた主人公は読み書きが出来た上に人望もあったから、ノーヴァヤ・ゼムリャのソヴィエト議長に推される。しかし近代化を目指す革命政府の通達と自分たちの伝統的な社会の間の矛盾に、しばしば苦しむようになるのだった。
 長年の主人公の尽力によってようやくネネツたちが近代的な暮らしに順応してきた矢先、第二次世界大戦がはじまる。ノーヴァヤ・ゼムリャにも軍隊が現れて、何人かのネネツたちが命を落とすことになっていくが…。
 映画のラストでは、老人となった主人公の偉業や画業がソビエト政府に認められ、彼が安らかな晩年を過ごしたことを示唆しながら幕を閉じる。

 さて、この映画の主人公「偉大なるサモエード」こそ、実在したノーヴァヤ・ゼムリャ島のネネツの指導者であり、画家でもあったティコ・ウィルコである。
 「偉大なるサモエード」は「未開のシベリア少数民族も、ソ連の政策のおかげでこんなに優秀な人材を輩出しました」というプロパガンダ用の伝記映画であったが、実際のティコ・ウィルコの生涯は、映画のように栄光に満ちたものではなかった。
 とくに、その後半生において。

 そもそもノーヴァヤ・ゼムリャ島は、ウラル山脈から北極海に向けて伸びるように連なる、細長い列島である。地表はツンドラと氷河で覆われ、地上動物はホッキョクギツネやとシロクマくらいしかいない。しかし、海獣はアザラシやセイウチ、シロイルカやクジラなどが豊富に生息している。
 この島の存在は11世紀頃にはロシア人にも知られていたようだが、人が移住するのは意外と遅く、19世紀になってネネツが住み始めてからだった。
 ネネツは古くから西シベリアに暮らしてきた遊牧民族で、野生トナカイの狩猟を主な生業としてきた。
 18世紀ごろ、シベリアにも商品経済が波及し、ネネツの生業もトナカイ狩猟からトナカイ牧畜がメインになっていった。それに伴い、猟場の権利を中心に結束していたネネツの大きな氏族社会は、家畜の相続を中心に結束する小さな親族社会に分割されていったのだった。
 さらに18世紀後半には家畜の所有数の差に起因する貧富の差が拡大し、かつての氏族共同社会はどんどん崩壊していった。
 家畜を持たない、あるいは疫病や借金のため家畜を失ったネネツたちは、富豪の奴隷になるか、故郷を捨て都市労働者に転身していく。
 その中で、北極海沿岸の島々で海獣狩猟に従事することで一発逆転を狙い、見事に生計を建てていったのが、ノーヴァヤ・ゼムリャ島に移住していったネネツたちであった。ティコ・ウィルコの父もそうした人々のうちの一人で、1879年にノーヴァヤ・ゼムリャ島に移住してきた。ティコ・ウィルコが生まれたのはそれから7年後、1886年のことである。

 ティコ・ウィルコの幼少期についてはよく分かっていない。確かなのは、1908年にノーヴァヤ・ゼムリャの調査にやってきたロシア人探検家ルサノフと出会ったことである。
 ルサノフはティコを案内人として何度も島を探検するうちに、ティコの画才と優れた資質に気が付き、1911年にモスクワに連れて帰ることになる。彼はティコが描いた絵の展覧会まで開いてやったという。

 ほどなくティコの兄が亡くなり、ティコが島に戻ってやがてソヴィエト議長に選出されるのは映画のとおりである。食料配給や学校教育の充実など、ティコにとってソ連の民族政策は大いに期待を寄せるものだったらしい。
 やがて第二次大戦の折にはノーヴァヤ・ゼムリャは北極海に展開しようとするドイツ軍への前線基地とされ、ティコも地元の犬ぞり隊を動員してソヴィエト軍に協力した。また、少なからぬ若者がこの島からもヨーロッパへと遠征していった。だが島そのものは戦火にさらされることなく、おおむね平和なものであった。
 この島が苦難に見舞われるのは戦後である。1954年、ソ連はこの島を核実験場に指定したのであった。

 同じ年、当時500人ほどいた島民に退去命令が出された。かなり唐突だったようである。
 1926年に就任して以来30年近くにわたって、ソヴィエト議長として島民の生活改善に努力してきたティコは、当然この決定を受け入れられなかった。ティコは実験の中止と住民の退去命令の撤回を求めてモスクワの軍や政府関係者に陳情に出かけていったが、逆にモスクワの政府は1956年に彼をソヴィエト議長から解任した。
 そして住民の退去が完了しないうちに、核実験を始めてしまったのである。
 この間の事情について、ティコの娘であるオリガ・レトコーヴは1988年のNHKの取材にこう答えている。

 ……今でも私達が暮らした丸太小屋が残っているそうですけど、このあたりの家は全部軍が使っているそうです。
 軍人は戦争中に来はじめましたけど1955年か56年に、突然、実験をやるから出て行けと言い出したのです。父は何回もモスクワに頼みに行きましたが、許されませんでした。多くの島民が島を出るのを嫌がりました。……ノバヤゼムリャは、魚や鳥、海獣などの獲物が豊富なところで、私たちネネツにとっても暮らしやすい自然の豊かなところでした。肉親のお墓もあるんですよ。その土地を離れられるわけがありません。
 父は自分自身もそうでしたが、そうしたみんなの気持ちが痛いほどわかり、当局に申し入れたのですが、逆に島民の説得の仕方が足りないと言われ、島を出ないならあと一週間で実験を始めてしまうぞと脅されました。村人に、島を出ないと危ないというと、今度は村人から軍当局の手先になったのかと非難されました。ずいぶん苦しみ、悩んでいましたが、結局父は議長を解任され、実験は始まってしまいました。
(『北極圏』取材班 『北極圏』4 日本放送出版協会 1988年)

 実験開始は1955年だったが、ティコやオリガをはじめノーヴァヤ・ゼムリャのネネツたちが島を離れたのは1957年だった。つまり1年以上、核実験場のすぐそばに留まっていたのである。
 オリガは実験が始まったあとについて、次のように述べている。

 1956年でしたか、ボートに乗っていたら、海で煙が上がったのが見えました……その後、軍がやってきて、こういう実験をこれから何回もやるから、その間は外出しないようにと強く言われました。水を用意して、ストーブの火は燃やさないようにと注意もされました。
 私達が島を出たあとも、もちろん実験を続けていましたが、そのうち軍隊にも死人が出るようになりました。島の鳥や魚を捕って食べているうちに病気になり、苦しんで死んでしまうのです。島をでたネネツの中にも死者がではじめました。
(『北極圏』取材班 『北極圏』4 日本放送出版協会 1988年)

 核実験は1957年から90年までの間に計129回行われ、うち87回は大気圏内での実験であった。また1963年から86年までのあいだに、島の東部のカラ海には鉄製容器に入った核廃棄物1万1000個と原子炉16個が投棄され、西側のバレンツ海には液体核廃棄物1万6000立方メートルが投棄されたという。

 ノーヴァヤ・ゼムリャから退去した人々の大半はアルハンゲリスクなどの都市や街に居所を求め、従来の海獣狩猟という生業と文化を失っていった。
 先に述べたとおり、ノーヴァヤ・ゼムリャの住民は19世紀後半にあらたな海獣狩猟資源を求めて移住してきた人々の子孫であり、彼らの父祖伝来の生業を続けられる場所は、他のネネツの土地にはもはや残されていなかった。
 それどころか、近隣のネネツたちも皆、ノーヴァヤ・ゼムリャまで出猟しており、彼らもそこの貴重な資源を失ったのである。

 核実験後のティコ・ウィルコはどうなったか。
 国家の政策に真っ向から対立することとなった彼は、当然その政治生命を絶たれることとなった。不幸中の幸いとして、スターリンが1953年にすでに亡くなっており、粛清されることは無かった。
 また、この頃すでにティコ・ウィルコはシベリア少数民族に対するソ連の発展プログラムを正当化する事例として内外に広報されており、完全に抹殺することもできなかったのである。そのため、ネネツの社会主義化に貢献し、ソ連民族政策の成果たる人物として描く限りにおいては、書物や映画に登場することを許されていったのである。
 ティコをはじめ、ソ連時代には少数民族出身の知識人というのが多数現れたが、彼らには一定の傾向が見られる。すなわち、彼らのほどんどが作家・詩人・画家・作詞作曲家などの芸術関係の仕事か、民族学者・言語学者などの自民族の固有文化に関わる仕事に着いていたことである。
 しかし、シベリア少数民族出身で、自然科学系の研究者や最先端の技術者、飛行機パイロットなどの国家戦略的な事業に関わる分野で活躍した知識人はほぼ居ない。文系学問においても、理論的にその分野をリードしたり、アカデミーや大学の研究施設長になった者はソ連時代には居なかった。
 彼らは知識人や芸術家にはなれても、ヨーロッパ系の人々と同等あるいはそれ以上の存在にはなれない。それが中央の知識人たちや行政にとっての暗黙の了解であり、ソ連に存在していた見えない壁であった。
 少数民族の知識人たちは、ソ連にとってあくまで宣伝利用できるマネキン人形でなくてはならず、人間として一人歩きされては困る存在であった。
 
 ティコは故郷や地位や生業のすべてを失い、失意のうちにアルハンゲリスクへと移り住んで3年後、74歳でこの世を去った。
 ノーヴァヤ・ゼムリャ島は、いまなおロシアの核実験施設として使われ続けている。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?