見出し画像

脈々と流れ、息づく、器のまち

特急みどりの車窓を流れる景色を見ながら、
この2日間は、歩くスピードで世界に触れたなあとしみじみ思う。

1616年に李参平が鍋島藩に磁器を献上したのが、有田焼のはじまりとされる。鍋島藩初代藩主 鍋島直茂公によって、日本に連れて来られたのが李参平である。朝鮮半島からきた陶工のリーダーであった李参平は、鍋島藩内で焼き物に適した陶石(磁器の原料になる石)を探し求めた。
そして、見つけたのが泉山磁石場。

この泉山磁石場から、有田のまちあるきがはじまった。
参考:http://arita-episode2.jp/ja/history/history_4.html

「有田の人は、ひとつの山を器に変えた」

泉山磁石場

佐賀県有田町は、日本ではじめて磁器がつくられた町だ。
泉山磁石場は、その“はじまり”の地である。
はじめて有田町に来た時、「有田にきたら1番最初にみてほしいところがある」といって、連れて行ってもらったのが、この磁石場だった。

今は更地になっているところに、山がひとつあったそうだ。
有田焼のはじまりとされる、1616年。
それから400年の月日を経て、泉山磁石場の大きな山は、器となり、有田から世界へと広がっていった。
「有田の人は、ひとつの山を器に変えた」
有田では、そんな言い回しがあるそうだ。

今も残る有田の町並みは、泉山磁石場が発見され、焼き物が産業として根付くことでつくられていった。言い換えれば、窯業が産業として起こる前はこの町並みはなく、鍋島藩はとても貧しかった。

有田内山伝統的建造物群保存地区 江戸時代と現代の地図の比較
左側の泉山を起点に町が栄えたのが分かる

陶器をつくるときの粘土は、そのまま使うのではなく、他の材料を混ぜ合わせるのが普通だが、泉山磁石場からとれる粘土は、加工をしなくてもそのまま使えるくらい良質だったそうだ。

・泉山磁石場で良質な陶石がとれたこと
・窯元で火を起こすのに必要な薪が十分にとれたこと
・周囲が山に囲まれて窯元の技術が外に漏れなかったこと
・町に流れる川の水力で水車をまわし陶石を砕くことができたこと

これらの条件がすべて揃ったから、有田は焼き物の町になることができた。
それは、偶然、ということもできるかもしれないが、
故郷を遠く離れてもなお、焼き物への深い愛をもった李参平に見つけてもらうことを、泉山磁石場はひっそりと待っていたのではないか。
そんな気がするし、そんな風に思いたい。
きっと出会うべくして、彼らは出会い、然るべきときに、発見されたのだと思う。

泉山磁石場から石場神社をまわり、有田のまちを巡りながら、
「生きている町だよね」と言った人がいた。
たしかにそうだ。
有田の町は、生きているし、活きている。
産業がある町。営みがある町なのだ。

町を歩けば、職人の息遣いを感じる。
まちの端々に、彼らの誇りとこだわりを感じた。
ある窯元さんで器を見せていただいているとき、今はちょうど裏で火を焚いているのだと話してくれた。器が並ぶ商店の向こうでは、土をこね、火を焚き、絵付けをする職人たちがいる。
この瞬間に、町全体で“ものが生み出されている”感覚を覚えるというのは、あまり触れたことがない世界だった。

有田焼でできた雛人形の話をしてくれた方は、
「人形ができて最初に手にとったときはね、本当に暖かくて。生まれたって、感じたのよ」といっていた。
生み出している、のだ。400年伝わってきた技術が、白い石の塊に命を吹き込んでいる。

千年、1000年、今

有田の町には、樹齢千年のイチョウの木がある。
磁器生産で栄え、細い道に家々が連なる様から「有田千軒」とも称された有田町だが、その町並みは一度消滅したことがある。1828(文政11)年の大火事のときだ。焼け野原となった町には数軒しか残らなかったそうだが、その火事を生き抜いたのがこの大イチョウであった。イチョウの根本にあった窯元は焼けずに残り、今も残る建物は文化財に登録されている。

まちあるきで訪れた絵付け師の方は、
「この皿をそこらへんに放ったら、土に還るのに1000年かかる」と言っていた。だから、君たちが絵付けしたものは、1000年後に残るんだ、と。

有田町では、そこらじゅうに陶器の破片がある

有田の大火事を生き抜いた、樹齢1000年の大イチョウ。
1000年よりずっとずっと前の火山活動でできた磁石場。
長い年月をかけて育まれた山の木々。川の水。
それらの長い年月を結びつける、人々の営み。
職人が生み出した器は、1000年残る。

有田にいると、途方もない年月を越えた先と、今この瞬間が、ぎゅいんと引き合わされる感覚になる。
目の前の器は、つい昨日、職人の手によって生み出されたものかもしれないし、1000年以上の時を経て、いまここにやってきたものなのかもしれない。

山のぼり

有田では、6月1日に「山のぼり」を開催すると、地元の方が教えてくれた。山を登るのではなく、八坂神社でお参りをした後に小高い丘の上で宴会をする行事のこと。朝鮮からきた陶工たちが、観音山に登り、故郷を恋しがり、お互いを労りながら宴会をしたのが由来とされる。
たしかに、韓国のおじちゃんおばちゃんは登山をしたら酒盛りしている。(山の上でお酒を飲んで危なくないのか、といつも心配になるが)

そして、陶石神社の境内からさらに上にあがった、有田の町がよく見えるところに李参平の碑がある。
町を歩いていると、真っ白な記念碑が緑によく映えて見える。
有田焼創業から300年後の1916年、有田の人々は、有田焼の父である李参平への感謝を込めて、記念碑の設立を決める。2年後の1918年、有田の町を見守るように碑が完成。

当時、李参平の記念碑を建てた、というその事実は、多くのことを物語っている。有田焼の父である、李参平という人への愛、感謝、尊敬の念。いろんな思いが込められているのだと思う。

毎年5月4日には、この碑の前に日韓両国の関係者が参列し「陶祖祭」が行われるそうだ。
有田焼のはじまりから、400年が経った今。
有田町の一大イベントである陶器市の真っ只中に、彼を偲び、感謝を捧げる祭りが開かれている。
参考:https://toso-lesanpei.com/history

風景に出会う。優しく切り取る。

トンバイ塀。登り窯に使われたレンガや窯道具を土で固めてつくった塀。

いくつになっても、旅はいい。
有田焼の絵付け師さんが、
「年をとると、縁が大きくなる」と言っていた。
縁がつながるという言い回しはよく聞くが、
大きくなる、と。
なんだか分かる気がする。
以前、住んでいた韓国。
今回、有田という町で韓国とつながりなおした気がした。

日本と韓国。
2つの国の間には、人々が生きていて。
人々の営みと、その出会いの一つひとつに物語があった。

どの時代にも、歩み寄ろうとしている人はいる。
国家や時代という大きな名前では語れない、
そこで生きていた人々と出会うことは、
世界を優しく切り取ることではないかと、思う。

2日間のまちあるきの後、みんなが撮った写真を模造紙の上に広げて、眺めた。
そこには、同じ場所の風景もあったし、
全く気づかなかった風景もあった。

同じ風景をみて、
違う風景をみた、2日間だった。

心に残る風景が、
いつかの風景につながるといいなと思う。

青い器。白い器。

有田で焼かれる陶器は、白い器とも呼ばれる。
絵付師さんからいただいた、白い器には、
藍色の絵が施されていた。
その藍色は、遠く離れた島根の出西窯の色ととてもよく似ていた。

去年出会った、青い器の物語が、
白い器となって、また自分の手元に届いたように思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?