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青い器の物語が私に届くまで

Story itself doesn't have a meaning.
I'm interested in how the story arrives to you.
ストーリー、それ自体には意味がないの。
私が興味があるのは、
そのストーリーがどうやってあなたにたどり着いたかなの。

ギリシャから来た彼女は、そう言って、天ぷら鴨そばをすすった。
「私、食べられないものはないし、何て書いてあるか分からないから、あなたが頼んでくれない?」と言われて、私が注文したそばだ。
ストーリーが私にたどり着くまでには、いろんな人を辿ってきているから、その物語自体は変わっている。元のストーリーがどうだったかなんて分かる術はない。そのストーリーがどうたどり着いたか。そこに意味がある、ということらしい。大きな瞳でまっすぐに見つめる彼女の言葉は、その瞳と同じくらいまっすぐに私に届き、心地よく響いた。

「野の花のように素朴で健康な美しい器を目指して…」
先日、友人たちと訪ねた出西窯で出会った言葉。
出西窯の創業メンバーの1人である、陶工 多々納弘光(たたの・ひろみつ)氏を紹介する文に添えられたこの言葉に、とても心惹かれた。
なぜこんなにも人は出西窯に惹かれるのか、その理由が分かった気がした。

終戦後、河合栄治郎の著作「自由主義の擁護」を読み、農村工業創始の使命感を持った多々納氏は、父・重成の助言で出西の陶土を用いて陶芸に取り組む。創業当初は美術陶芸を目指していたが、陶器作りの方向性や窯の運営について悩んだ際、河井寛次郎に、実用に即した陶器作りに励むように諭され、実用陶器作りを志したのが出西窯のはじまりだそうだ。

参考「多々納弘光の仕事」


「純粋な楽しみは生活の側にある。あるものの楽しみを知ること。」と私の父が言ったことがある。それを出西窯と多々納弘光の生き様に感じて、甚く感動した。

綺羅びやかな装飾がついた美術品も美しいのだけれど、
それはとても華奢で儚く感じてしまう自分がいる。

出西窯の厚みのあるずっしりとした器は重いという人もいるが、
この厚みと、それから感じる土気ゆえの素朴さとぬくもりの中に、
生活の側を見るようで、心震える自分がいた。

実用の中に美を創るとは、なんと美しい考えだろうか。

人はやたらと小さな頭でこねくり回してみたり、
何かを知った気になって華やかな言葉で饒舌に語ってみたりするけれど、
知るべきことは、すでに在るように思う。

特別な瞬間ではなく、日々の生活の中に息づく至極自然な営みを大切にできるか。

バラは綺麗だが、菜の花が好きだ。

そんなことを出西窯の在り方に感じるのだ。

多々納弘光をはじめとする、出西窯の思想と精神、そのストーリーを知ったとき、もっと早く知っていたかったと思ったが、同時に、
「私が興味があるのは、そのストーリーがどうやってあなたにたどり着いたかなの」というギリシャの彼女の言葉が頭の中に響いた。

多々納弘光と、志を同じくした人たちの軌跡が私の届いたのは、
今の私だったからだと思う。
そして、そのストーリーの中で、たしかに彼らは息をしていた。

小泉八雲の物語の軌跡を辿って旅する彼女のように、
私も多々納弘光の軌跡を辿ってみたくなった。

翌日の海はとても青かった。
出西窯は青い。吸い込まれるような、深い青。
出西窯の青色は、この海の色なのかもしれないと思った。

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