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香港のダムめぐり・その2「新界の大規模ダム」編

2018年9月の香港旅行で2日間かけて、香港島と九龍の12ダムを訪れた。その後2019年5月と9月の2回、香港を訪れて新たに新界の5ダムを見てきた。今回はこの新界5ダムのダムめぐりをまとめて記事にする。
香港島と九龍半島の12ダムは、日本がまだ江戸時代だった1863年に建設された薄扶林水塘ダムから、1931年に建設された九龍副水塘ダムまで、全てが戦前に築かれた比較的小規模なダムだった。
一方、今回見て行くダムはいずれも新界に築かれたもので、戦前の城門ダムもあるが他はいずれも戦後の建設で、しかもその規模も年代が下ると桁違いに大きくなっていった。中には海の入り江を塞いで、海水を抜いて淡水を貯水するというダムまで現われた。そうした「新界の大規模ダム」を5つ見て行く。


前回の香港島と九龍のダムめぐりはこちら



3日目:城門ダム・下城門ダム

訪問日 2019.04.29
城門ダムへは荃湾からアプローチしたが、バスを使って梨木樹邨 Lei Muk Shue Estate に行った方が、ハイキング路の入口近くまでバスで行けたようだ。

城門ダム

コンクリートフェイシング・ロックフィルダム
1936年
堤頂長213.1m / 堤高86.0m

城門ダムは、戦前の香港の金字塔とも言える土木構造物だ。貯水容量は1,328万m3を誇る。それまでに建設された12ダム(=前回までに制覇した、香港島・九龍のダム群)の全貯水容量を足し合わせても1,268万m3でしかなく、城門ダム1つでそれを上回っている。上水道の水源が一気に2倍になったのだから、当時の香港にとっていかに重大なダムプロジェクトだったかがわかる。
後に建設された下城門ダムと区別するために上城門ダムと呼ばれることもあるらしいが、それよりも、戦前の土木的偉業を称えるためにそのまま城門ダムと呼ばれることが多いようだ。

堤体の貯水池側はコンクリートで表面を覆ってある。これが止水層になっている。
現在のロックフィルダムは、岩石を積み重ねる際に粘土などの水を通しにくい岩石でコアを作って止水層とするが、城門ダム建設当時はそうした複雑な施工にはせず、手っ取り早く表面にコンクリートを葺いたようだ。

上流側から見ると普通のコンクリートダムに見える

取水塔と余水吐き(グローリーホール)は歴史的建造物に登録されている。

城門ダムは土木遺産としての価値もあるが、ハイキングコースとしても香港の人々に親しまれているようだ。たまたまだけど、買ったコカコーラの缶が城門ダムの取水塔デザインだった。
ダムめぐりをしている時にこうしたものに出会えるの嬉しい。

城門ダムの周囲には第二次世界大戦の戦跡も残されている。
昭和6年(1931年)、日本軍が満州事変を起こして中国情勢が緊迫すると、イギリスは日本軍が中国本土から香港に攻め入ってくることを想定して新界に防衛線を構築する。この防衛線には、秘匿の意味があるのか、それとも司令官がジン好きだったのか知らないが、Gin Drinkers Line(醉酒灣防線、ジン飲み線)というなんともふざけた名が付けられている。
城門ダム付近のGin Drinkers Lineは、秘匿のためダム工事を装って作られたという。

要衝間を敵の攻撃を避けて移動するための地下通路

城門ダムと下城門ダムは、ともに同じ城門川に設けられている。理屈的には川に沿って下って行けば下城門ダムにたどり着くのだが、実際山道もあるようなのだが、土砂崩れがあって通行止めになったりして荒廃しているらしい。少し足を踏み入れてみたものの、すぐに道が荒れてしまって引き返した。
仕方ないので一度九龍水塘ダムに出て、そこからバスで大囲新村に行って、下流側からアプローチしようと思う。新界の山についてもだいぶん地理観が付いてきた。前回は城門川を遡っていって途中で行き詰ったので、今度はちゃんと下調べをしてダムサイトへ通じる道を正しく選んだ。


戦後香港の大規模ダム建設計画 - Plover Cove & Hebe Haven Scheme

下城門ダムに行く前に、下城門ダムを含めた戦後の香港の大規模ダムが建設されることになった経緯を見ておこう。

第二次世界大戦で日本軍が占領した香港は、戦後、日本の敗戦によってイギリスが統治を取り戻した。一方、中国本土では国共内戦が起こり、その帰結として中国共産党が政権を取り1949年に中華人民共和国が建国された。戦乱とそれに続く共産党支配からの逃避先として、香港には短期間に多くの難民が流入した。
日本の軍政による経済破壊によって60万人にまで減っていた香港の人口は、1950年には200万人を超えたと推計されていて、初回の人口統計(センサス)が行なわれた1961年には313万人へと急増していた。さらに5年後の1966年には370万人に達していた。
人口が急増した香港は水不足に悩まされることになった。飲料水としての水の確保はもちろん、当時軽工業が勃興しつつあった香港では、例えば布の染色に用いる水がなければ服飾加工ができなくなるといった経済発展のボトルナックにもなりかねなかった。

1963年の大干ばつによる水不足の様子を伝える香港歴史博物館の展示

ダムの建設が急がれるわけだが、土地の狭い香港では大規模ダムの建設候補地は限られてしまう。
そこでイギリス香港政庁では、海の入り江を締め切って淡水化する「海中ダム」を2つ建設することを中心とした Plover Cove & Hebe Haven Scheme を考え出した。Plover Cove とは船灣淡水湖ダムのことで、Hebe Haven 萬宜水庫ダムのことだが、もちろん両方とも見に行く。
下城門ダムとは言うと、Plover Cove & Hebe Haven Scheme の4つに分けられたステージのうち、その第1ステージとして建設計画が含まれていた。

香港政庁の資料から

下城門ダム

訪問日 2019.04.29

ロックフィルダム
1964年
堤頂長228.9m / 堤高66.5m

下城門ダムが完成したのは1964年。
奇しくもその前年の1963年に日本では黒部ダム(富山県)が完成している。前者は上水道用として、後者は発電用として、それぞれの土地で戦後の経済発展を支えて行くことになる。

わざわざ黒部ダムを引き合いに出したのは、実は下城門ダムは日本企業が建設したダムだからだ。国際入札を落札した西松建設と熊谷組のJVが建設している。
日本の占領・軍政の記憶がまだ残り反日感情もある香港で、香港の人々への貢献として水不足の解消に挑む日本人技術者の思い。
現地の労働者の労務管理やイギリス流の施工管理に戸惑いながら、戦後日本が国際進出するまでに復興したことへの誇り。
様々が思いが入り混じる中、日本人技術者にも殉職者を出しながらプロジェクトを成し遂げた経緯は『香港の水 Hong Kong Dream』(木本正次著、1967年)として紹介されている。1992年にはテレビドラマ化もされ、NHKでドラマスペシャル『ホンコン・ドリーム―私の愛した日本人―』(1992年10月18日放送)が放送されたそうだ。

木本正次は毎日新聞の記者で、黒部ダム(富山県)の建設の困難を綴った『黒部の太陽』の著者でもある。『香港の水』は木本にとっては『黒部の太陽』の次作になる。
NHKのドラマスペシャル『ホンコン・ドリーム ―私の愛した日本人―』の放送日については、NHKアーカイブスの「NHKクロニクル>過去の番組表」によると1992年10月18日だが、日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムのアーカイブによると1991年7月20日となっている。

ちなみにこの堤体の斜面は地元のラジコン飛行機愛好家の飛行フィールドとして使われているようで、この日も何人もの愛好家が来てフライトを楽しんでいた。写真に写っている人と車はそれ。

おそらく城門ダムを意識してデザインされたであろう、取水塔と余水吐き(グローリーホール)。水位が下がっているせいか、巨大な植木鉢が置いてあるように見える。

ダムの下流部にある吐き口。下城門ダムが満水の際に溢れてグローリーホールに落ちた水はここから下流に放流される。放流水の勢いを削ぐために、スキーのジャンプ台のような形状で水を一度上に跳ね上げるようになっている。

写真は2018.09.15に撮影

城門川の下流、大囲新村というニュータウンの中を流れている様子。河道はコンクリートで固められている。

写真は2018.09.15に撮影

4日目:船灣淡水湖ダム

訪問日 2019.05.04
MRTの大埔墟 Tai Po Market 駅からバスに乗り換えて行く。

ロックフィルダム
1968年
堤頂長2011.68m / 堤高27.5m

船湾淡水湖ダムは1968年に建設された大規模ダムだ。香港は狭くて新しいダム/貯水池の建設候補地は限られていたため、海の入り江を長さ2km、高さ28mの堤防で締め切り、淡水を溜めて貯水池とした。香港政庁の水供給計画 Plover Cove & Hebe Haven Scheme のPlover Coveとはこのダムのことで、 英語表記ではPlover Cove Damと記される。
1973年にはかさ上げ工事を行なって、貯水容量を2億3,000万m3にまで増やしている。
香港の水道水は域内だけでは賄えず中国の東江からも送水しているが、その水も一旦ここに貯留してから配水している。

これまで見てきたダムと比べて、いきなり規模が桁違いになった。堤頂の長さが2km以上ある。行って戻ってきたら4kmだ。しかしダム好きとしてはここで引き下がるわけにはいかない。4kmをてくてく歩いて船湾淡水湖ダムを踏破した。

2kmの堤頂を歩いてはみたものの、これ程の規模になると地上からでは全容がつかめない。そういう時はドローンだ。ドローンを飛ばして空から眺めてみた。
写真右手の少し緑がかって見えている水面が淡水の貯水池で、左手が海だ。海面の方が低くなっているのがわかる。

5日目:大欖涌水塘ダム

2019.09.16

コンクリート重力式ダム
1957年
堤頂長370.0m / 堤高54.9m

先にPlover Cove & Hebe Haven Schemeの話をしてしまったので順序が逆になってしまったが、大欖涌水塘ダムが香港で戦後初めて完成したダムになる。
大欖涌水塘ダムの貯水容量は2,000万m3ある。それまでの香港全体のダムの総貯水容量が城門ダムを入れても2,600万m3だったから、これまた一気にスケールアップした感がある。
それでも当時の香港は、急増する人口に対して水供給が追い付かなかったのだ。香港では1936年の城門ダムの建設の後、第二次世界大戦をはさんで約20年間は新しいダムは作られていなかった。このブランクも大きかった。

堤体が折れ曲がっているのは面白い。わずか30しかダムがないのに、こういう変わり種もあるのだから香港のダムめぐりは面白い。
堤体には石が貼り付けられていて、戦前の香港のダムで多く見られたメイソンリーダムの伝統を継承したデザインとなっている。

大欖涌水塘ダムへは2度目のアプローチでようやく行くことができた。
このダムは、ダムの下流側に刑務所があって、ダムへ通じる道路を塞ぐように刑務所のゲートが設置されている。実際には支障なく通れる(刑務所で有事発生の場合は通行止めにしてしまうのかもしれないが)のだが、最初来た時はそういう事情がわからず、ゲートの前で引き返してしまった。

今回は、刑務所を通る道ではなく、掃管笏新村 So Kwun Wat San Tsuen からのアプローチを試みた。掃管笏新村へは屯門からミニバスが出ている。
無事ダムサイトにたどり着き、堤頂を通って、帰りは刑務所側に降りてみた。経験的にこういうところは、入るのは難しくても出るのは簡単に出してくれる、何なら追い出されるものである(あれ?刑務所もだっけ?)。
帰り道、びくびくしながら刑務所の横を歩いていたら、ジョギングしている地元の人とすれ違って拍子抜けした覚えがある。刑務所のゲートは無事通れて「出所」できた。

写真右の壁は刑務所の壁だ

6日目:萬宜水庫ダム

訪問日 2019.09.17

ロックフィルダム
1978年
(西堤防)堤頂長759.9m / 堤高102.5m、(東堤防)堤頂長490.1m / 堤高107.0m

香港で一番大きな貯水容量を持つダムで、2億8,000万m3になる。船灣淡水湖ダムと同じく海の入り江を塞いで淡水を貯めている。Plover Cove & Hebe Haven Schemeのもう一つの「海中ダム」、Hebe Havenとはこのダムのことである。
堤防は西側と東側に2か所あるが、いずれも100mを超える高築堤になっている。

高さが100m以上もあるので地上からの眺めも迫力がある。

10km歩いてようやくたどり着いた東堤防。

柱状節理が見応えがある。日本では柱状節理と言うと黒っぽい安山岩だが、ここのは流紋岩でできているため白っぽい。
UNESCOの国際ジオパークにも認定されている。

こちらは、ダムの直接の堤体ではなくて、その外側にもう一つある堤防。ダムの堤体は海には直接面していなくて、こちらの堤防が海に面している。
西堤防も同じ造りになっていた。
堤高が100mを超えるような堤防を建設するためには、一旦海を締め切る仮堤防を作って工事したのかと思う。その時の仮堤防がそのまま残されているのではないだろうか。

香港の中心部から萬宜水庫ダムへ行くには、九龍川の鑽石山 (Diamond Hill)からバスに乗ってまず西貢という町まで行く。そこでバスを乗り換えて、北潭涌 (Pak Tam Chung) という集落まで行く。ここがダムに一番近いバス停で、そこから先は歩きになるが、西堤防までが4.5km、東堤防まで歩くと10kmの距離になる。
今回はダムをあちらこちら見て回りたいので、頑張って歩くことにした。

頑張って歩いたご褒美。途中で標点を見つけることができた。ダムを建設するには測量が欠かせない。

歩き以外では、西貢でタクシーに乗車して行くことになる。
萬宜水庫ダムの東堤防周辺には溶岩が冷え固まった柱状節理が露出していて、世界ジオパークにも指定されている。観光客も訪れるのでダム内の道路はタクシーが時々通りかかるが、ルールがあって、東堤防以外で客を乗車させることはできないらしい。東堤防まで行く10kmの道のりを歩いている途中で疲れて、ちょうど空のタクシーが通りかかったので呼び止めら、そういうことで乗せてもらえなかった。


おまけ
船湾ダムを訪れた時のお昼は、ダムサイトに出ていた屋台で食べることにした。ダムと貯水池周辺がレクリエーションエリアとして整備されているので、ちょっとした観光地になって屋台も出ているのだ。
それで、前から気になっていた「出前一丁」を頼んでみる。インスタントラーメンをそのまま調理して目玉焼きとポークランチョンミートが載っている。海の家の味と言ったところだろうか。
こうしたジャンクなローカルフードを味わうのも、香港のダムめぐりの楽しいところだ。

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