2024/3/1

あれからもう二ヶ月も経ってしまった。あまりに辛いことが多すぎた。
きっとこんな悲しいことは二度とないと信じたいから、僕はせめて表現者として文字で気持ちを残そうと年明けから思っていたけど、出来なかった。正直今だって、自らの心を締めつけて引き絞ってそこから滴る血液をなすりつけているみたいにつらい。今回の出来事とその感情について、僕はつらいとか悲しい、しんどいくらいしか言葉を持たない。色々知識は溜め込んできていたと思っていたけど、難しい言葉とか入り組んだ表現は、特に必要ないみたい。というのも、現実に起こることの生々しさなんてものは言葉の比じゃない。現実で起こることは全然おしゃれじゃない。高度なボキャブラリーを求めない。そして何より、僕はその現実を頭の中で分解して再構築して興味深い一連の文字列に変換できるほど、まだ現実を直視できていない。俺が弱いのか、皆もし同じ立場ならこうなのか。後者を信じたいけど、最近身近な人の「もうそろそろ現実を見なよ」みたいな目線をひしひしと感じてつらいんだ。俺は間違っているのか。間違っていたのか。他人のことを断罪して語る前に、もう良いだろうというほど自分の罪悪を考えていることを、ここでくらいはお断りをしておきたい。まず何よりも俺は自分の至らなさを恥じているし、ゆえに当然の結果にたどり着いていることくらいわかっているんだ。


俺は頑固だ。そして幼稚だ。人が小学生くらいの時に持っていて、それからの日々で徐々に世界と他人と自分を知って変形させていく(喪っていく)世界への視点をいまだに持ち合わせている。なまじそういう自分での成功体験があるからだろうということもあるけど、結局僕は他人や世界と真剣に交渉したことがないんだろうと思う。つまり、自分の求めることと世界や他人が僕に与えるものに溝があっても僕は交渉できない。諦められないんだ。これまで色々な人にこの性分を形容されてきた。頑固、幼稚はもちろん、自己中心的、勝手、独りよがり、人の話を聞かない、人の気持ちを推察できない、プライドが高い、危うい・・・etc。

これまでのみんな教えてくれてありがとう。そういう言葉をきちんと耳に入れて内省することも僕にとっては許せないことで、耳を閉ざしてきたけど、どれだけ耳を塞いでもずっと外で鳴っていたら聞こえたりもする。素直に良きものを良きといい、悪きものを悪しと言う、純粋で向上心あり、素直な心性でこの世の真理を求める本物の人間と比べて、どれだけ、それらの言葉を真に自分の胸に響かせて改善しようとすることに時間をかけたろう。みんな一言目にはそんな俺を褒めてあまつさえ羨望して、二言目には諌めるんだ。そういうところがいいところだねって。そして忘れず付け加えるんだ。そういうところがダメなところでもあるよねって。


僕は心の底から呑気だ。能天気で、決定的なのは人を信じすぎている。つい昨日あったことを残そう。僕は昨日自分のバイクのバッテリーが上がっていることを知って、保険を通してレッカーしに来てもらった。そしてバイクの鍵を業者に預けるときに、そのおじさんが僕のキーに、エネキーが付いていることを伝えた。エネキーってのはエネオスで、かざすだけで給油ができる、まあキーにつけていて取り出しやすいクレジットカードみたいなもの。便利なんだけど、かざすだけでガソリンが入れられてしまうから扱いには用心が必要した方がいい。だけど、そのおじさんにエネキーが付いていることを聞いた僕がその場その時言ったことはこんな言葉だった。
「あー大丈夫ですよ。どうせしばらく僕ガソリン入れないし」
一応僕だって後で気づいた。あのおじさんがたとえば邪気が差して自分の車の給油に僕のエネキーを使うってこともあるわけだって。何やってんだって思ったし自らの猜疑心の無さにまた辟易とした。


僕が人を疑う時は過去の苦い体験から形だけでも学んでガワで真似しているにすぎない。こんなに人を信じ込んで、時に自らの生殺与奪を預けてのうのうと生きていられるのに、人の言葉は聞かないんだ。意思が強いのに、人を信じるから、その手の人に見つかったらすぐに全てをスポイルされるような人間だ。
そしてその時が来た。これまでの生き方の代償を払わされているんだ。そう代償。そういうふうに思わないとあまりに理不尽で納得できない。許せない。目の前のあまりに惨めな現実さえも、因果関係以外で理解できない人間の悲しきサガを思う。


目の前でそういう現実が立ち塞がった時、僕のとった行動が自らに対する暴力であったことは今にして思うと理解が容易い。自らこの生を絶って仕舞えばこれ以上世界と交渉する必要はないし、自らの意思を諦める必要もないから両面立つ。僕にとって「交渉」という言葉はかなり必然的に「譲歩」のニュアンスを含んでいる。僕は譲歩したくない。世界に対しても他人に対しても。だから当然ぶつかる。我ながら不器用でかっこよくない生き方をしているなと思う。ちょっと話は違うかもしれないけど、音楽をしていて僕がハモれないのも、リズム感が乏しいのも、世界との交渉する意欲のなさにあるのかもしれない。音楽とはそれ自体が他者、世界との交渉なのにもかかわらず。だからいつまで経っても、どんな賑やかな場所にいても、人がただ聞いているだけにすぎない独り言をちょっと大きな声で言い続けているに過ぎない人間だ。僕が応用の効かない人間であることをまあ大体の人間はしばらく一緒に過ごしたら理解する。そしてしばらく一緒に過ごすまで自分がそれを理解できなかったのは、僕の卑劣な体面、体裁、帳尻合わせのめくらましを食らっていただけであることを彼らは理解してそれなりに嫌悪する。それが今全て露見して、傍目から見て感じる魅力と、僕は内面的に自信を喪失したということで、ただただ当然の流れを辿って当然の現実を迎えているだけなのだ。色々騒ぎ立てているだろう。これも僕のパフォーマーとしての一種の卑劣な詐欺にすぎない。この絶望感にはずっと苦しめられている。時に無視し、時にそれすらも悲しそうに吐露して共感を求めたりする。だから信用ならないのは何を隠そうこの自分なのだ。

今の僕に必要なのは自信。紛い物でも、卑劣でも、刹那的でもいいから自信が欲しい。僕はやっていけるという自信が。でも、きっとその自信が今の僕で手に入ってしまうのは、僕のこれまでの絶望的で袋小路のみ待つ生き様の悪しき成功体験の強化でしかない。だから、僕は今、一方で軽々しく自信を手に入れてもいけない。僕はこの住所不定の二ヶ月からこれまでの生き方や考え方を一変させる教訓をこの手に掴み取らなければいけない。それは交渉であり譲歩であり、人を認めることだ。本当の意味で。こうして人間は前向きにならないといけない。でも前向きになりたくないんだ。僕の過去の旧弊すべてが泣き叫びながら、これまでのうまくいったことをあげつらってそこに必死でしがみつきながら、泣き叫びながらそれを拒むんだ。救いが欲しいと思うんだけど、救いに期待することを恐れているんだ。救いに期待することを恐れているんだけど、救いが欲しいんだ。こういう感情を人に分かってもらえるように伝えることは難しい。僕が人の行動をそう評価しているように、人は、僕の心情を、僕の行ったたった一通りの現実的行動とその結果から推しはかって評価するから。僕の行った一通りの現実的行動が僕が是非とも望んで選んだ一通りの現実的行動だと思われてしまうから。僕自身が人の行動をそう思う反面で、僕は遂に、人は僕のことをそうでない見方で深く推理した上で理解して欲しいというとんでもないわがままを捨てられずにいる。そして当たり散らす。


真冬に絶望の淵に立たされてから、気づいたらもう春が来ようとしている。こんなに春に嫌悪感を持つことは初めてだ。永遠に閉ざされた冬の中で苦悩にまみれていたい。苦悩にまみれている間は諦めなくて済むから。でも春が来てしまって、僕の心にも次に進まねばならないという強靭で健全な意志が芽吹き始めている。人はこれを良き兆候として誉めそやす。冗談じゃない。これは訣れだ。これまでの僕の生き方を諦めよと、春の空気にほだされた僕の性根の楽観的思考がそう声高に主張し始めているのだ。一体どうすればいいのだ。と自問してみても、誰に聞いても、正しい方は分かりきっていて、百遍自身で反芻した助言をされるからたまらない。そういう意味で僕は僕に優しいすべての善意溢れる友人の中にいても孤独感を拭うことができない。そしてついに自らの楽観的心さえも。僕の頑固で幼稚な心はもはや四面楚歌というわけだ。そして同時に、僕をここまで叩き落とした顔面たちも白々しくそれを応援してくれている。キレイな言葉で客観的にもっともなことを言い出す人間からはどこか凶悪な人相を感じ取る。僕はそういう人間が嫌いだ。

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