日記を書く 2023/11/10

日記を書くことにしました。たぶんよく言われる日記とは違う意味だと思います。なんて言ったって、webで全世界に公開しているのだから。公開していることが、実際に見られることでないことは承知しつつも、その可能性が、ボクの最もセンシティブな情報の開示をさまたげる。でもそれで良いんです。見られて嫌なことは書き込まない。人に見られることを前提とした日記。でもそこに日記という言葉を使用する意味はちゃんとボクの中にあります。つまり、何か文章をしたためることに対してブクブクと膨張した、「良いものを書かなければ」という完璧主義を捨てて、無心でMac(夏に購入した、おかげで貯金が底を尽き住み込みバイトをすることに)に立ち向かいたいのです。舞台の本番前の緊張に対して、緊張は体の正常な反応だからそれを積極的に認めて良いと思う、という旨のアドバイスを過去に何度かもらったことを思い出した。似ていると思った。「良いものを書かなければ」「良い演技をしなければ」それはなんだか嫌な完璧主義を彷彿とさせる。人目を憚らずのびのびと動く方が、自分の中の純度100%のものが出せるはずという感覚と衝突しているからだと思う。しかし、一方で思う。人に伝わってナンボという気持ち。それを失ったら、大して考えてもいない表現を、それっぽい抽象的な雰囲気で丸め込んで、それを見た人に「自分は分からなかったけど、なんかスゴかった・・・」なんて言わせて「俺のセンスは常人には理解できないものなのだ。俺は天才なのだ」と走り出したばかりの凡人をしばしば待ち受ける陥穽を追体験することになる。このこき下ろしは他者に向けていない。過去の自分に対して。

まあ、つまり、人目をどれくらい気にするか、他者に見られることをどれくらい想定するか、ということは、ボクの活動一般にかなり大きな影響がある。これはこれでボクの中に、書き出すと5000字は下らない葛藤があって、たぶんここで書けば壮大な脱線になるし(脱線が嫌なのではない。自分が「これが言いたくて書き出したのである」と思えることを忘れてしまったりそもそもそれを書く意欲を喪失してしまうことが腹立たしい。)

なので話を戻すと、ボクがこれから書き続けたい(それならどれだけ怠惰で継続に定評のない自分でも取り組めるだろう)と思う文章が、全世界に公開はしているけれども日記と呼ぶもの、ということです。サラリーマンでお金を稼いでいたときは、何でもかんでも分かりやすさとMECEばかり教え込まれた気がします。それは定義を決めることだったり、結論→理由の順序で書くことだったりグラフを使用することだったり色々。分かりやすさばかり重視した結果が今の停滞の社会で、インスタントな快楽に皆々様お浸りになっている現状であると悪態をつきつつも、実はボクはそういうビジネスライティングが苦手ではなかったし、ボクがこの文章の一行目から述べている内容をかなり一瞬で伝える方法も分かっている。でも、まあ、しないことにした。ここまで読んでくれている人はそんなことしなくても読んでくれているわけなので。人の優しさに甘えていこう。


日記なので、人に伝えようという気持ちは極力持たない。未来の自分にギリギリ伝われば良いかなくらいの感覚を大事にします。その反面、公開されていることを知っているのでボクにとって本当に大事なことは書かない。まあ、書くかもしれないけど、日記と違ってありのままの本音を曝け出すことで精神の健康を云々みたいなことを目的とはしない。そういう日記はノートにシャーペンで書いて、机の奥の奥にしまっておくことにしよう。

無職だからさ。時間はあるわけよ。それでも出来なければ俺に足りていないものはなんなんだろうな。

札幌発の劇団Road of座のブログです。主に代表で役者の大橋が更新しています。サポートよろしくお願いします!